叫んだ女性は力なく、そのまま床に座りこんだ。まるで糸の切れた操り人形のように、膝の力が抜け、どさっと座り込んだのだ。そしてぶつぶつと何かを呟いている。
「どうして………なんで、アマリアが…………ねぇ、あなた、どうして!」
 彼女は夫にすがりついて、泣き叫ぶ。
「落ち着きなさい。まだそうと決まったわけではない」
 そうは言うが、夫も混乱しているのは明らかだった。どうすればいいのか、と顔に書いてある。
「なんでなの……? あの子が、あの子が犠牲にならないように全てを……アマリア、あぁ、やっぱり、初めから追放すべきだったのよ、そうすればあの子は……!」
 混乱した妻は思ったことを全て口にしていた。それに使用人の何人かが青ざめてラエスリールの方を見た。どうやら聞かれてはまずい言葉だったようだと彼女はその視線から悟る。
「……部屋に連れて行きなさい。他の者も一緒に」
 オルズがゆっくりと言った。ラエスリールはその嫌に落ち着き払った様子に疑いの眼差しを送った。
「父さん……」
「いいから連れて行きなさい。………ラエスリール殿、話を聞いてくれますな? いや、聞かないことには貴女は納得せんじゃろうな」
「……はい」
 無表情な顔のオルズに、彼女は答えた。
 ドアの前で夫は妻を起こし、部屋へと連れて行く。子どもたちもそれについて行った。使用人も不安げにオルズを見てから部屋を離れた。オルズはアマリアの部屋に入る。ラエスリールはそれに続いた。
 少女の部屋だというのに、あまり物もなく、質素な部屋だった。
「あの子は、姉に似て優しい子なんじゃ。頑固でもあるな。だから、こんなことに」
「………使用人が、あなたたちは彼女が嫌いだと」
 昨夜の態度を見ていればそれを納得するのは容易かった。けれど、つい今し方、ここでアマリアの母親が叫んでいたことはそれに疑問を投げかける。
 何かがおかしい。
「アマリアには言ってない、けれど家の者なら皆が知っている秘密があるのです。実は、ソルフィーが亡くなった後、私たちの元に手紙が届きましてな」
 それは普通の手紙ではなかった。
 それには文面と言うものがなかった。
 それは声だけの手紙だった。
 明らかに、人外のものが送った手紙だった。
「浮城にいた自分はすぐに気が付いた。妖鬼ではなく、妖貴がこの村に干渉しようとしているとな。本当はすぐに逃げ出すべきじゃった。けれど、それは無理だった。無理なのを知っていた」
 妖貴相手にただの人間となった自分が、しかもこんなに老いているというのに何ができるというのか。
「手紙の内容は簡潔じゃった。『アマリアを寄越せ』。ただ、それだけじゃった。日時も何にもない。咄嗟に私は答えてしまった。『それは駄目だ』とな。ソルフィーを失ったばかりなのに、続いてアマリアを失うことなど、私には考えられなかった」
 だから言ったのだ。
 しかしあの子の代わりは準備できる、と。
「もうお分かりじゃろう? 私たちはあの子の代わりに、別の娘を差し出した。要求が来るたびに、別の娘をな。それが、この村を襲っている事件の真相の一端じゃよ」
 他人の子なら構わない。
 そう思ってしまうのは、自分の家にばかり不幸が重なっていたからだ。
 いや、それは言い訳かもしれない。
 ただ単にあの子を失うのが何よりも嫌だった。その為なら、他人はどうなってもいいと思ってしまった。
「人間は恐ろしい生き物じゃな。私は自分がこんなに醜く愚かだとは思っておらんかった」
「………何故彼女を遠ざけて?」
「あの子を遠ざけていたのは、ああすればあの子がこの村を出て行くと思ったからじゃ。真実を言えば、あの子は魔性の元に行ってしまう。優しい子じゃからな。追放するという考えもあったが、理由がない。ずっと守り続けていくには村の娘の人数は限られている。時には隣町の娘を差し出したりもしたが、それにも限界がある。だから、どこか遠くに逃げて欲しかった。魔性の手の届かない場所へ。家の者が皆辛くあたれば二度とこの地には来ないだろうと思った。だから、あの子が『姉を見た』と言った日からそう接してきた。でもあの子はここにいた。ずっとな」
 オルズは部屋の窓から空を見た。月が見えない曇り空。
 空気が息苦しい。
 許す、許さないという問題は、自分が抱え込むものではない。それはこの村の村人が考えることだ。自分は部外者なのだから。でも許せるか許せないかの問題は、抱え込んでもいいと思う。
 ラエスリールは下唇を噛んだ。
「…………逃げることなく、ここでこうして、過ごしていた。あの子に酷いことをしてしまった。そしてあの子に誤解を与えたまま、あの子は目の前から消えてしまった」
 悩むのは、この人に課せられた罰なのだろう。
 一生、彼はこの事を悔やみながら生きるのだろう。
 どんな結果が待っているにしろ、彼らが取った行動は正当な裁きを受けるに等しいものなのだから。
 ラエスリールは踵を返した。
「もう、行くのか?」
「…お世話になりました」
 彼女は振り返らなかった。その背中を見て、オルズは泣きそうな顔をした。
「………覚悟はしていたんじゃ。私も元浮城の人間じゃからな。こうなることは覚悟していた。人は妖貴に敵わないのだから」
 老人の呟きを背後に、ラエスリールは部屋を出た。





「浮かない顔をしているね」
 部屋に戻ってきたラエスリールに闇主が言った。
「着替えるからどこかに行ってろ」
「出るの? こんな夜中に?」
「……私に必要なのは非情さ、だろ?」
「ふぅん。珍しいことで」
 口元に笑みを浮かべて、闇主はフッと消えた。ラエスリールはそれを確認すると着替えだした。
 これ以上、ここに関わるのは得策ではない。何もできないのなら、干渉すべきではない。これは彼らの問題なのだから。
 そうは思うのだけど。
 着替え終わった彼女は荷物の口をきゅっと締め、破妖刀を腰に佩いた。
「………闇主」
「なぁに、ラス?」
 姿は見えないが、返事はきた。
 だから訊く。
「辿れるか?」
「なんだ。やっぱり行くんだ」
「……彼らの為じゃない」
 アマリアの為だ。彼女だけは助けたい。彼女に攻められるべき要素はないのだから。助けて、それから考えればいい。それでも家族の元に戻るのか、それとも……。
 どちらの結果を選ぶにしろ、全ては彼女を助けてからだ。彼女を助けられれば、彼女に未来を選ぶ機会を与えられる。だから行くのだ。
「それに、巻き込まれれば、問題もない」
「……ラス、性格変わってないか?」
「お前の所為だ」
 すぐさま返されたその答えに、闇主は笑う。
「まぁ、なんだか一種独特の空気を醸し出しているみたいだから、辿るのは簡単じゃないかな?」
 そう言いながら闇主は部屋の中に滑り込むように姿を見せた。
 部屋は真っ暗で明かりと言えば、机の上の燭台のみ。
「それじゃあ、行きますか?」
「言われなくても」
 ラエスリールは憮然と言い返した。



   ※



「……ん? う、ん……」
 ぼんやりと目を開けると、そこは真っ暗で、まだ目を閉じているかのような錯覚を抱いてしまう場所だった。
「ここ、どこ?」
 アマリアはそう言って、体を起こした。
 暗さに目が慣れてくれば、それなりに部屋の様子が分かってくる。かなり簡素な造りの家屋だ。村の建物もそれなりに年代を経ているものが多いが、ここまでのものはない。
 部屋の中には何もなかった。小さな真四角の部屋で、唯一あるものといえば窓ぐらいだ。
 何故、自分がこんな所にいるのか。
 自分の中の最後の記憶は、確か自分の部屋にいて。
 それで。
 それで?
 そうだ。誰かに出会った。薄闇の中、突如部屋の中に現れた人間は、自分の知り合いだったはず。
 あの顔は、誰だった……?
 ガタン。
 考えていると近くのドアが開き、ビクッと体を震わした。ドアの向こうは部屋よりも暗く、そこに誰が立っているのかは、ここからでは見えなかった。
「目が覚めたのか……」
 その声。
 アマリアにはその声に聴き覚えがあった。
「……あなた」
 呆然と、彼女はその影を見つめた。



   ※



 その人が、普通の人でないことは実は会った時から分かっていた。自分にはそれを見破る能力が元々備わっていたから。
 それでも惹かれたのは、その人がなんであろうと関係なかったからなのだろう。その人が、その人であれば良かったのだ。
 だから彼が一緒に生きることを選んでくれた時は嬉しかった。
 きっと幸せになれると思っていた。
 結局、自分はそうなる前に彼の前から消えなくてはならなかったけれど。
 幸せだったとは思っている。
 短くても、それでも幸せを見つけることができたと思う。
 彼を残して自分は逝くことになるだろうという事は初めから分かっていたのだ。それが少し早めに来ただけのことであって、だから少し悲しくはあったけれど、半分は受け入れていたのだ。
 最後にあの人の顔が見られなくても、例え自分がここから消えてしまっても、あの人の中に自分は残るだろう。
 いずれ忘れてしまうかもしれなくても、せめてそれまでは彼の中で自分は生きているはずだから。
 それなら、構わないと思った。
 なのに。
 なのに、何故自分はまだここにいるのか。
 無理やり繋ぎとめられた。
 それは愛しさを抱かせると同時に、憎しみを生み出した。
 彼への気持ちは変わらなかったが自分は彼を許すことはできなくなった。
 止めたいのに、止めることができない。
 言葉を紡ぎたいのに、紡ぐだけの力がない。
 こんなに傍にいるのに、何一つ伝わらない。
 そして彼が狂って行く。
 悲しみが連鎖する。
 このままでは、自分の大切な人が犠牲になってしまう。
 自分は死んだままで良かったのに。
 止めないと。





 止めなくてはいけない。



   ※



「……あれは?」
 真っ暗な森の中を進んでいる最中、木々の合間に白い布みたいなものが見えた。それは徐々にこちらに近付いてきている。
 不審に思ってラエスリールが立ち止まると、闇主が物珍しそうにそれを見た。
「へぇ。こんな所であんな物をみるとは思わなかったな。あ。でも、失敗作だ」
「失敗……? 何なんだ、あれは」
「…命の紛い物」
「何?」
 闇主が言った言葉がよく聞き取れなくて、ラエスリールは聞き返すも、彼は真っ直ぐにそれを見ているだけでもう一度答えてはくれなかった。
 布はその間も彼女たちに向かって近付いていた。
 よく見ると、それは布ではない。ぼんやりと浮かぶのは人影であった。そしてそれの顔が見える距離に近付いた頃に、ラエスリールはぎょっとした。
「アマリア…?!」
 雰囲気は違うが、彼女にそっくりだった。しかしそれは似ているだけで、彼女ではないこともラエスリールはすぐに気付けた。
 生きている者の気配がしない。おまけに、それはいくつもの命を抱え込んでいた。
 人ではない。
 でも、魔性でもなかった。

――オネガイ

 唇が動くことはなかったが、それは確かに彼女に意思を伝えていた。
 白い頬を透明な涙が伝った。
 伝ったように、見えた。
 心が、そう感じた。

――アノ人ヲ、止メテ……

「あの人?」
 問うが、それは頷くだけで、すぐに彼女に背中を向けた。そして、ゆっくりと来た道を戻っていく。
「ついて来いってさ。どうする、ラス?」
「……あれが行く方向が、目的地か?」
「みたいだねぇ」
 のんびりと答える闇主。
「だったら行く」
 ラエスリールはそう言って、それの後をついて行った。




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