それが得られるのならなんだってできた。
 どんなものにも自分の命を捧げられると。
 自分にはそう決意できるほどの思いがあった。
 そしてそれを実現できるほどの力もあった。
 だから、それを望んだ。



 それの何が悪いと言うのか。
 悪いと言えるのか。



   ※



 彼はそれの前で呟いた。
「また、なのか……?」
 深い悲しみに彩られた瞳で、彼はそれを見ている。それが表情を変えることはなかったが、瞳からは絶えず涙を流し続けていた。血も流れず、温もりさえもないと言うのに、それは温かな雫を瞳から零し続ける。
「やはりこれでは駄目なのだな……」
 言いながら彼は、手に持っていたものを床に投げ捨てた。
 投げられたものは転がることもなく、ごとっという重く鈍い音を出しながら床に落ちた。床は今にも抜けそうなほど傷んでいる。
 外を吹きまわる風が、家の隙間から入り込み、積もった埃が微かに舞っている。
 部屋は蝋燭の小さな明かりが照らすのみ。
 薄暗い部屋。その床には彼が投げ捨てたものと似たような大きさのものが十数個あった。それらは動くことはなく、けれど何かを訴えるかのように存在することをやめない。
 彼の前にいるそれは、それらを見て悲痛な光を瞳に宿す。
 しかし、声が漏れることはなかった。
 だから彼にそれの思いが届くこともなかった。
「君に近い者さえいれば。そうすれば、君は完全になるのに」
 優しく頬を撫でながら、彼はそう囁いた。
 それはゆっくりと首を横に振る。
 まだ涙は流れ続けていた。
「怖がることはない。失敗はしない。大丈夫だ、私は君の為ならばなんだってできる」
 それはまた首を横に振る。
 しかし、その真意を彼が掴むことはできなかった。
 彼は薄っすらと笑うと、それを大切そうに腕の中に抱え込む。そしてゆっくりと長い髪を撫でる。
「不安になることはないんだ。大丈夫、絶対に成功させるから」

――チガウ

 それは心の中でずっと彼に向かって言っていた。

――チガウ……ソウジャナイ………

 何度も何度も繰り返していた。
 それでも彼はそれに気付くことはできなかった。
 気付けるような心は、もう彼にはなかった。
 彼は既に己の中に巣食った何かに捕らわれてしまっていた。



   ※



 気丈に振舞っていても、自分にも限界はある。
 アマリアはそれを感じていた。
 自分の部屋にあるベッドの上で、膝を抱えて座りながら彼女は考えていた。
 そろそろ潮時なのだろうか。
 墓参りの帰りにラエスリールに「それでも戻るのか?」と訊かれた時、表情には出さなかったが、心の中では揺れていた。
 家に帰っても居場所はない。
 ご飯を食べさせてはもらっているが、最近は会話らしい会話もしてない。
 ここにいるのに、いないかのように扱われるのは、かなりしんどい。
 例えば。
 例えば、小さな頃からこうだったのなら大して思いつめなかったかもしれない。
 それ以上に、さっさと見切りをつけて家を出られたのかもしれない。
 でも駄目だったのだ。
 何度か実行しようとしたが、その度にこの家に染み付いた思い出に足を止められた。
 覚えている限り、自分はここに留まるしかないのだろう。
 この家には自分にとって楽しい思い出があまりにたくさん詰まりすぎている。それを全部切り捨てることはできない。何より、優しかった家族との思い出がこの体の中に詰まっている。それを引きずって家を出ることは、自分にはできなかった。
 どうしてこうなったのか。
 自分が、人と違うものを見ることは昔からよくあったではないか。
 そう、浮城の人間の血を引いていた所為からかは知らないが、自分は昔からよく魔性と遭遇していた。
 それなのに、「姉を見た」と言っただけでこれだけ避けられるのは、どこか異常な気がしてならない。
 姉と自分に、何か関係があるのか。
「……ソルフィー姉さん、か」
 棺に入った彼女は綺麗に着飾られてはいたが、森から連れてこられたばかりの彼女は、無残な死体だった。
 信じたくないほどに、無残だったのだ。
「どうしよう、姉さん?」
 あの日。
 森の中で見た姉は、何か言いたそうだった。
 惹き込まれそうなエメラルドの瞳に悲しげな色を浮かべながら、姉は自分を見ていたのだ。
 唇が微かに動いていた。
 けれど声を聞く事はできなかった。
 夢でも幻でもないと思う。
 自分に都合のいいように作ったものではない。
 でもどこか禍々しい感じがしたのは覚えている。
 そしてそれを言った時から様子が豹変した家族。
 あの態度は……。
「気味悪がっているんじゃないわ」
 唐突に彼女は思った。
 そうだ、ショックのあまり冷静さを欠いてしまっていた。
 家族は自分を変人だと思っているかのように振舞っているが、それでもその瞳は異常な者を見る目ではなかった。
「あれは、恐怖している目……」
 自分に恐怖している?
 違う。
 自分が見たものに対して、何か恐怖感があるのだろう。
 幽霊が怖いんじゃない。
 そんなものは自分たちにとって怖くもなんともない。
 祖父から散々昔話として聞かされた魔性のほうが何倍も怖い。
 だとしたら、あれは魔性なのか。
 森の中で見た姉は、魔性だと言うのか。
 家族の者はそれを知っているから、だから怖がったのではないか?
 でも、それだけにしてはやはり異常な反応だ。
 まるで自分をこの村から追い出そうとするほどの対応を取るなんて。
「……あれと、私に何か関係があるのだわ」
 そう思うといても立っても居られない。
 アマリアは立ち上がって、祖父に問いただそうと思い、部屋を出ようとした。
 しかし。
「アマリア…」
 耳に入ってきた、自分を呼ぶその声に足を止めた。
 低い男の声だった。
「誰?!」
 振り向いたが、それの顔を確認する間もなく、意識がすうっと遠のいた。



   ※



 小さい頃から抱いていた劣等感がある。
 それは生まれつきだからどうしてもどうにもならないものだけど、どうにかしたくて仕方なかった。
『ねぇ、母様。どうして?』
 何度も母親に尋ねたことがある。その度に母親は困った顔をしながら、私の頭を撫でるのだ。
『仕方ないのよ、ラス。私とあの人が違うように、あの人とあなたも違うの』
 そう言われても理解ができなかった。
『だって、母様。リーは飛ぶこともできるし、他にも色んなことができるのよ? 私はリーのお姉さんなのに、どうして私にはできないの?』
『そうね。でも、あなたにしかできないこともきっとあるわ』
『……そんなのは要らない。私、リーみたいな力が欲しい』
 母親の手を握って、強請ったことがある。
 だって、父親はとても綺麗で強くて。母親も同じぐらい綺麗で強くて。弟は小さい頃から父親や母親のような力を持っていて。
 自分ひとり、何もできなくて。
『人には、もって生まれた役割があるの。いつかきっと、あなただけにしかできないことが見つかるわ』
『…分かんないよ、母様』
『いつか、よ。ラス、時が来れば分かるわ。いつかあなたを必要してくれる人が必ず現れるわ』
 そんな事を言われても、信じられなかった。
 だって、なんの取り得もないのだから。
『こんな私を好きになってくれる人なんていないよ、母様』
 そう言うと、母親は優しい瞳をして、そっと抱きしめてくれた。温かくて柔らかい。いつも寂しそうだったけど。
『私も昔、そう思っていたわ。でも、あの人はこんな私を好いてくれた』
『……母様?』
『ラス。もし、外に出たら……あなたはきっと色んな人に出会うわ。あなたを好きになってくれる人。嫌いになる人。友達になる人、敵になる人。世界は思っている以上に複雑で、楽しいことばかりでもない。涙を流すこともあるだろうし、落胆することもある。世界に失望する時もきっとある。人を憎んでしまう事もある。でもね、ラス。何があっても自分を嫌ってはダメ。劣るところがあると思うのは、仕方の無いことだけれど、でも、自分自身を嫌うことはダメよ。あなたはここにいていいの。あなたは、自分の居場所をこの世界に求めていいのだから』
『……』
 ぎゅっと抱きしめてくる腕の力が強かった。言われていることも難しくてよく理解できない。
『少し難しかったわね。大きくなれば分かるようになるわ』
 にっこりと微笑みながら母親がそう言うから、そうなのだろう。
 じゃあ、この言葉の意味が分かるまで、この言葉を覚えていようと、この時そう思った。
 話が終わってしばらく沈黙が続く。母親は優しく頭を撫でながら、最後に一言、小さな、消えてしまいそうな声でこう言った。
『ごめんなさいね、ラス』
 何に謝っているのだろうか。
 それを尋ねたかったが、あんまり母親の声が弱かったので、結局何も聞けずじまいだった。



   ※



 悲鳴が聞こえて、ラエスリールは飛び起きた。時刻は真夜中だ。降っていた雨は止み、しかし湿った空気が自分を包んでいた。
 部屋の中は暗く、手元さえもよく見えない。
「どこ行くの?」
 クスクスと笑いながら、部屋の壁に寄りかかっている闇主が訊いてきた。ラエスリールは闇の中に沈むように立っている彼を睨むような視線で射ながら答える。
「悲鳴のした方に決まってる」
「わざわざ自分から厄介ごとを抱え込む必要はないと思うけどなー。せっかくの村長さんの好意を無駄にしちゃうんだ」
「……悲鳴はこの家からしたんだぞ?」
「俺はラスに被害がなければそれでいいし。他の誰がどうなろうと知ったことじゃない」
 その答えに腹が立ったラエスリールは、寝巻きの上に上着を羽織り、家人が用意してくれた簡素な室内用の靴を履いて部屋を出て行った。
 闇主はその様子を見て、やれやれと肩を落とす。
「本当に貧乏くじばっかり引くんだな、お前は。これじゃあ、さっきの説得がまるで無駄じゃないか……………まあ、それぐらいの方が飽きが来なくていいけどな。これぐらいで死ぬなよ、ラス。俺はまだまだ退屈しているんだから」
 クククッと笑うその顔は、彼女の知らない顔だった。





 自分の記憶を頼りに暗い廊下を声のした方に向かって走っていくと、そこにオルズを初めこの家に住む彼の血縁者と、使用人が何人か既に集まっていた。彼らがいる所は家の一室の前であった。
「何があったのですか?」
 こんな夜中に悲鳴が上がるぐらいだ。もしかしたら魔性がこの家に入ってきたのかと思ったが、それらしい気配は感じない。
 尋ねると、そこにいた全員がラエスリールを見た。誰もが悲痛な顔をし、そしてそれと同時に何故、と不思議がっている。予期せぬ悲惨な出来事を何の前触れもなく突きつけられた人間の顔をしていた。
 やがて、震える声で村長の息子の妻が叫んだ。
「娘が……アマリアがいないんです!」
 その答えに、ラエスリールが目を見開いた。




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