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世界は至って平穏だった。
魔性の力に依存する社会が崩れたというものの、滅びなかった魔性達は多い。
皮肉にも、力を拠り所としない浮城の護り手達や、護り手ではなくとも、もともと強大な力そのものに信仰的な興味を覚えない者や、変容後の魔性達は全て生き残った。
妖主達や、その側近が滅びた事により、一斉にして新しい妖貴達が生まれているようだ。


当然といえば当然ながら、邪羅、鎖縛、衣於留は生き残った魔性達の三人だった。
藍絲が造った人形である彩糸は、作り手と共に滅びると思われたが、藍絲は彼の作品達への執着の為か、滅びる間際に全ての人形との繋がりを断ったのだ。 これはこれで、世に何かを残そうとした藍絲の立派な職人気質といえるのか......。
いずれにしろ、今回の事でリーヴェシェランは彩糸を失う事は無かった。


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カラヴィスの庭園にあるベンチに据わって、ラエスリールはぼんやりと考えていた。
闇主が去った直後は、余りの辛さに塞ぎ込んでしまっていたが、一週間ほどたった今は大分何があったかを見返す余裕が出て来た。
余裕と言っても、常に頭を占めるのは闇主の事になってしまうのだが。
時間というものは、実は一番の癒しなのかも知れない。

闇主は言った。
彼は未来の自分に起こった運命を受け入れられずに、闇主としての自覚の無い茅菜のまま過去に来たのだと。
ふと、それはどんな未来だったのだろうと思う。
あの時茅菜と出会ってなかったら、自分にどんな運命が訪れていたのだろう?
自分は瞳を取り戻しに行った、闇主の事しか考えられなかった。
彼に焦がれて、逢いたくて、他の事を考えずに浮城を飛び出してしまう程に。

翡蝶と対戦して、千禍が現れた時、もし茅菜であった闇主の気配が無かったら――?
あんなに闇主に焦がれ続けていた自分の前に、千禍しかいなかったら?

それではきっと、自分は千禍の手を取ったのだ。
違うと分かっていても、目を瞑って耳を塞いででも、彼の手を取らずにはいられなかっただろう。
ラエスリールにとって大切であると知りながら、セスランを残酷なまでに嬲り、そもそも自分の事など楽しめる玩具としか思っていなかった千禍。
そんな彼の手を取って、どのような未来があったというのか?
乱華は、父は、緋綾姫は滅びずに生きていられたのだろうか?
疑問は次々に湧いて来るが、それでも闇主のいない未来など、考えられない......。

茅菜は、闇主として自覚した後、いくらでも未来に帰れたのだ。
だが闇主は自分が浮城を出奔した後も、ここに留まり、共に逃亡する事を選んでくれた――昔誓った約束そのままに。
過去を変えるという禁忌を犯してでも。
ずっと傍にいると。
それなら、今度は自分の番だと思った。

『闇主』が自分と共にある事を望むなら、『茅菜』ではなく『闇主』として自分の傍にいる事を望むのなら――。
『想い』でも『記憶』でも、自分が探してやるべきだと思った。
ただその方法だけが分からない。
目頭が熱くなった。
茅菜を闇主として目覚めさせる方法だけが分からない。
『想い』も『記憶』もその辺に落ちているものではない。
自分の心はこんなにも闇主を求めているというのに。
ラエスリールは途方に暮れ、溜め息をついた。
涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「選択肢は無限大にあるとか、謎かけの真似なんかせずに、最初からどうこうしろとはっきり言ってくれれば良かったんだ......」

つぶやいて自分の言動に苦笑した。
どうしようもない、と。
今だから分かる。
闇主が自分から、あれほどまでに情報を遠ざけようとした理由が。
示唆する事でいくらでも変わってしまう未来。
一番可能性の高い、『かつて一度決まってしまった未来』の方に道が繋がらない様に。
或は、欲しい未来を引き寄せる為に。

大体、あの男は何千年生きて来たのか分からないが、ラエスリールに出会うまで、自由気ままで自分勝手にやりたい放題やって来たのだ。
強大な力を有するが故に、命令する事は大得意でも、頼み事をするのは死ぬ程苦手だし。
あれこれ色んな事にこだわるくせに、変な所で大雑把だし。
意地悪だし。
口は悪いし。
平気で嘘はつくし。
自分勝手だし、我が儘だし、他人が嫌がる事ほどやりたがるし。

それでも......。
再会してすぐの、破妖剣士と護り手だったとき、ちぐはぐな関係でも、ふざけながら自分の心を開いて行き、同時に変わっていった闇主が懐かしい。
衝突して、喧嘩して、それでも大抵は彼が折れてくれて――全ては自分の為に。
こんな出来損ないの自分を認めてくれて、自分は自分のままでいいと、見守り大事にしてくれるひと。
そんな闇主がどうしようもなく恋しい。

いつだって聞きたかった、「お前は私の何なのだ?」と。
なぜ故に柘榴の妖主と言わしめた魔性の王が、こんな魔性としても人間としても、落ちこぼれの自分と共に居てくれるのだろうと。

いつだって聞きたかった。
なぜ闇主が傍にいないとこんなにも彼に焦がれて、彼を求めてしまうのか。
一緒にいたいと思ってしまうのか。

それが愛情と呼ばれるものだったなんて。

答えは拍子抜けするほど簡単なものだったというのに。
何を恐れていたのか、ラエスリールは自分自身に目隠しをしていたのだ。
きっと、父と母があんなに愛し合い求め合った結果が、悲劇であったからに他ならない。
愛という、二人が育んだあんなに強く美しいものが、目の前で儚く引き裂かれてしまったからに違いない。
自分と闇主の関係は、ああいう悲運に終わって欲しくはないと、心のどこかで恐れていたのだ。

「馬鹿者......」

それは誰に向けられた言葉であったのか。
嗚咽がもれ、涙が止めどなく溢れて来る。
そんなラエスリールを抱きしめてくれる腕はここには無い。
堪らず彼女は、自分の膝を抱いた。




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