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もう随分前に闇主が言っていた事がある。
魔性とは、著しく安定に欠いた種族なのだと。
強大な力に惹かれ、主を定める事で、力と精神の均衡を保っているのだと。

永遠にも近い命を与えられ、長い時間をかけても精神は熟成せず。
強大な力に依存しなくては己を保てない、半端な種族。

「......私は......やはり、ただの駒だった......のか......」

呆然と、ただ呆然と。
自分が引き金となった、『異変』とも呼べる現象を目の当たりにして、ぽろぽろと涙が溢れた。

創造主が望んだ未来――それは強い力に焦がれ溺れる『古い』魔性という種族の消滅。
すなわち、妖主達と側近級の妖貴達の消滅。
現に、変容の後に生まれた魔性達は、力を拠り所としていない。
彼等は、新しい種類の魔性なのだ――それが創造主の望んだ新世界だという事か。
自分に紅蓮姫を与え、少しずつ経験を積ませ、闇主を護りに付けて......。
すべては仕組まれていた事。
選び取ったと思っていた未来すらも、全ては創造主の手の内の中で。

「そうでもないさ」

自分の宿命を刷り込まれたアーゼンターラの死と共に、砕け散った紅蓮姫を見たときの慟哭は、言葉に出来ないものだった。
身体の一部を抉り取られたような痛みを感じた。
無理も無い――自分達はもう同化したも同然だったのだから。

そして『雛の君』の死と共に訪れた、魔性達の消滅。
能力を次々と掠め盗られた魔性達は、雛形となった彼女と共に、滅びたのだ。
自分の父親を含む全ての妖主達と、彼女に復活させられた『駒』達も。

父を失い、乱華と緋綾姫をも失って。
彼等の身体が砂と化し、コトリと最後にただ一つ残ったものは。
朱金の宝石。
かつて自分の左の眼窩に嵌っていた――。

あの時。

更にあの時、他の妖主達と共に闇主をも永遠に失うかも知れないと悟った時。
紅蓮姫を失った直後に、彼まで傍から消えると思ったとき――。


あまりの痛みに心が壊れると思った。

でもこんなに苦しいのなら。

......いっそ壊れてしまった方が――!


だが――あの時、闇主だけは滅びなかった。
悲観に暮れた自分の傍に有ったのは、やはり自分が選び取ったと思った、深紅の青年だった。

安堵が満たすと共に襲う、なぜ、と言う疑問。
滅びゆく魔性の王の中で、なぜ彼だけが生き残れたのか?

「創造主だか何だか知らんが、奴等の決めた事だけが、お前の選択となった訳じゃない」

この状況を目の当たりにして、どうしてそんな事が言えるのか?
だが口にしたのは、時を司る魔性の王。
真摯な眼差しの中に、偽りの色は見えない。

「『俺』もこれを望んだ。 他の何が滅びてもお前と共に有る事を選んだ」

そしてラエスリールもまた、無自覚でありながらもそういう選択をしたのだ。
だが、そういう選択の余地をラエスリールに与えたのは、他でもない自分だった。
それでも――彼女は確かに、家族を含む誰よりも、自分を選び取ったのだ。

「だが......それも時間切れのようだ。 俺もそろそろ行かなくては......」

「闇、主......何を......」

何を言っているのか?
闇主のひどく悲しげな感情だけが伝わって来た。
思わず彼の腕を掴んでいた。

「お前は真実を知ったら、俺を憎むかもしれんな」

だが彼女は知らねば。
自分は出来るだけの事はしたつもりだ。
闇主は掛けたのだ――自身の望む未来を。
そしてその選択権は他の誰でもない、ラエスリールにある。

「行くって......どこへ......」

本能的に何かを悟っているのか、ラエスリールの声は未だ見えぬ恐怖に震えていた。

「こんな状況でお前を残していくのも大分気が引けるが......生憎、時間がないんでな......」

分かっていた筈だった。
あの時ラエスリールの傍にいると決めてから、『この彼女との』別れは覚悟していた筈だったと言うのに。

「闇主......! またそうやって、約束を違えるのか!? ずっと......傍にいると......!」

言ったはずなのに、それなのに......自分の都合だけで、何度も何度も! 
これ以上心が持ちそうにない......。
もはや枯れてしまったと思っていた涙がとめどなく溢れて来る。
かけがえの無いものをいくつも失った上に、闇主まで傍から離れるなど、考えられない事だった。
どうしようもなく襲って来る慟哭に、膝が震え、もう立っているのもやっとだった。

いつもは余裕を失わずに平然としている闇主の表情にも、誰にも見せた事が無いだろう悲痛の色が濃く漂っていた。
闇主の両手が頬に添えられ、涙を拭った。
彼の顔が近づいて来たが、涙でぼやけてよく見えない。
堪らず目を瞑ったとき、そっと唇が重なった。

どうしようもない、想いとしか呼べないものが流れ込んで来た。
独占欲、執着、切望、苛立ちも、悲しみも、そして自分をすっぽり包み込むような優しい愛情も――。
そんな強い想いが全て。

いつ唇が離れたのかは分からなかったが、気が付くと、涙で濡れ続けるのを構いもせずに、闇主の頬が自分のそれに重なっていた。
強く抱きしめられる。
その温もりを離したくなくて、彼の背中にも両腕を回した。
そしてラエスリールは、数年来の相棒の衝撃的な告白を耳にする事になる。

「ラス、ラエスリール、よく聞け......俺は、今この時点の世界には、存在しないものだ。 俺は......茅菜は......今まさに実体化しようとしている......」

絞り出すような声だった。

「『俺』は、この時間軸上の俺に会う事は出来ない」

それは彼の消滅を意味するのだと。

「な......にを......」

「本来の俺なら、未来から来た『俺』の気配を感じれば近づこうなんざ思わないんだがな。 茅菜は記憶も無いまま真っすぐお前の所に来るだろうからな......」

言い訳がましい口調で闇主は続ける。
茅菜が生まれた直後......彼女はラエスリールに起こった運命を受け入れられなかったのだと。 
だから茅菜は欲求のままに過去に降り立ち、ラエスリールの傍にいる事に決めたのだ。
その後、想いの核であった黒鷺の『ヨル』との出会いにより、『闇主』である事を自覚した訳だが。
それでも彼は走るのを止められなかった。
それによって世界の秩序が崩れると分かっていても、ラエスリールと共に無い未来は考えられなかったのだ。

「でも......いくら茅菜がお前でも、『ヨル』がいなければ『闇主』にはならないし、翡翠の件から私と共に有った記憶も無いんじゃ......」

それでは、闇主であって闇主ではない者ではないのか?
『想いと記憶』が無ければ、茅菜は茅菜以外の何者でも無く、闇主には成り得ないのではないか?

そんなラエスリールの思惟に気付いたのか、闇主は力なく笑って告げた。

「選ぶのは......お前だ」

かつて闇主の見た未来は、今とは全く違うものだった。
自分がラエスリールの傍にあった事で、彼女は確かに違う選択をしたのだ。
それは創造主が仕組んだ事だったのか?
違うだろう。
闇主は断言する。
過去を変えるという禁忌を犯しながら、自分がこれまで『闇主』であれた理由は、恐らく創造主と自分の利益が重なったからに他ならない。
それでも自分はラエスリールを選び取り、またラエスリールも自分と共に有る事を選んだのだ。
だがこれからの未来を決定づけるのは、時空の王には不可能な事だった。

「......選べる、選択肢も......無い、のに......!?」

嗚咽に混じって漏れたラエスリールの言葉に、闇主は胸を抉られるような気持ちを味わっていた。
自分とて、彼女と永遠の別離になるかもしれない現状を後にしたくはないのだ。

だが、一つだけ確かな事がある。

未来の自分達の行方はどうなるか分からないが、少なくともラエスリールの未来は千禍に弄ばれ、仲間を奪われ、苦悶の中で生きるものでは無いという事だ。
イリアが現れたとき、自分が見た未来が確実に変わっているのを確信した。
少なくとも、未来には『茅菜』として生まれる自分がラエスリールの傍にある可能性があるという事だ。
もはや存在しない千禍の支配に絶望する未来ではないのだ。

「未来は、要素一つで変わる。 選択肢は、ある意味無限大にある」

それを他でもない自分達はしたのだ。
イリアの世界に自分は居なかったようだが――当然だ、自分はこの時代におりてきているのだから。
イリアの生まれる未来すら、今の時点では未確定なものだ、だが可能な未来の一つと言えるだろう。
ラエスリールはこの世界で未だに『茅菜』と出会ってはいない。
今のラエスリールがどう『茅菜』を変えるのか、それは闇主にも分からない。
自分が未来に帰る頃には、それも明らかになるだろう。
未来のラエスリールに『待っていろ』と伝えたのは、自分が未来に帰らなくてはならない日が近いと感じていたからだ――それが闇主の姿であれ、茅菜の姿であれ。

固く抱きしめていた身体を名残惜しそうに引き離した。
緋綾姫の瞳であった朱金の宝石をそっとラエスリールの手に握らせる。
彼女の金に輝く瞳と、自分が与えた深紅の瞳が、涙をたたえながら真っすぐに自分を見つめていた。
自分はもうここには二度と返っては来れないだろう。
何にせよ、『この自分』が違う時間を生きる『このラエスリール』と会う事は二度と無くなるのだ。

「『俺』を待つな」

これが最後かも知れない。
それでも闇主はそうではない事を祈るしかないのだ。
二人が共にあれる未来を信じて――。
そっと右手を彼女の頬に添えた。
左の深紅の瞳を見つめる――彼のたった一つの、常にラエスリールと共に有ったもの。

「愛しているよ、ラス、お前の全てを......」

ラエスリールへの想いを最後の言葉に乗せて、深紅の魔性は宙に掻き消えた。
残されたのは、何もない空間にラエスリール一人。
抱きしめられた感触も、頬に残った手の温もりも、未だに残っているというのに。

「あああああっっ......あん......しゅっっ......」

涙でぐちゃぐちゃになりながら叫んだ。
もう身体に力が入らなくて、そこにうずくまった。

「闇......、主っっ......!!」

痛い。
痛くてたまらない。
心が悲鳴を上げている。
呼んでも来ないのはもう分かっていた。
もうこの世界のどこにも闇主の気配は感じられない。
どんなに感覚を研ぎすましても、全く何も感じられない。


「姉ちゃんっ!! 大丈夫かっっ!??」

血相を変えて空間に捩り込んで来た邪羅の声を遠くに聞いて、ラエスリールの緊張の糸もフツリと切れた。
あまりの痛みと苦しさに、ラエスリールは意識を切り離したのである――。



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