***


「やめろっ!」

女としてはやや低い叫び声とともに、朱金の輝きが視界を埋め尽くしたのは、その刹那。
眩しいほどの光を纏って出現した朱金の化身と共に、深紅の青年が刻み込んだ所有印が無効化する。
漆黒の髪をなびかせ、目の覚めるような美貌の女が『屈強の男』を庇うように佇んでいた。
琥珀と深紅の色違いの瞳が、真っすぐに緑の妖鬼を捉える。

「頼むから...もう、罪の無い人間を殺める事は...して欲しくないんだ...」

どう言ったら自分の気持ちを上手く伝えられるか、分からなかった。
だから、頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。

目の前の、森の妖精のような妖鬼の怒りがびりびりと空気を震わせた。
彼の瞳に認められるのは、荒れ狂う憎悪。
己の憎しみの対象しか視ていない瞳だった。

「我が眷属であるお前が、なぜ人間の肩入れなどする!?」

ラエスリールは『屈強の男』を顧みた。
知らない顔だ。
腰に下がっている大剣も、破妖刀ではない。
良かった、この男は浮城の人間ではないのだ。

「...この人の心臓を喰っても、お前達が欲するような力にはならない!」

実際には、この男の心臓を喰らえば、もの凄い力が得られた筈なのだが、幸か不幸か緑の妖鬼もラエスリールもこの男の正体には気付いていなかった。

「それに...ター二スさんだって、お前達がこんな事をするのを、望んではいない筈だ」

ターニスと聞いて、緑の妖鬼にも、深縁の女にも、明らかに動揺が走った。
やりきれない。
闇主から聞いていた。
この緑の妖鬼は人間にいいように使われ、裏切られたのだ――。


あの日――愛する妻を『屈強の男達』に連れ去られたあの日から、この妖鬼の男は絶望の中で、必死にターニスを探そうとしたのだ。
だが、解決せねばならない現実問題が先にあった。 最愛の妻が残した、半妖の娘が、食事を必要としたのだ。 森の中にある果物や木の実を必死に集めた。 だが赤ん坊の娘は、乳を欲しがり、泣いた。
だから村や街を巡り、外套を頭からすっぽり被って、果物と交換に乳を分けてくれそうな民家を訪ねた。

そんな当ての無い旅に途方に暮れた緑の妖鬼を救ったのは、たまたま通りがかった商人だった。
男は果実酒を作るのに、大量の果物が必要なのだと言った。
キスタという街は、酒に適した果物がよく採れる気候なので、そこでそれを手伝ってくれたらお前の娘の食事の世話をしようとも――。
心底困り果てていた妖鬼は、商人の要求を呑んだ。 男は約束してくれたのだ――酒が売れて、少し金の余裕ができたら、お前の人探しの手伝いもしてやるよ、と。
何年も、それだけを希望に男の意に添い働き続けた。
だがいくら商人が果実酒で大儲けしようが、再三頼み込もうが、ターニスを探してくれる気配はない。
果物をせっせと一人で集めて来る妖鬼は、商人に取って恰好の『安い奴隷』であったのだ。
騙された、と思った。
その気にさせてやろうと、果物採りを放棄した。
しかし懐の肥えた商人は、さっさと代わりの人材を雇い、自分と娘を追い払ったのだ。
金に目が眩んだ人間を心底憎んだ。
ターニスを連れ去った傭兵達もまた、金を欲目に自分達の幸せを引き裂いた人間達だった。
死ね!
死んでしまえ!
そんな奴らなど、苦痛に悶えて死んでしまえ!
憎悪が身を包んだ。
人間の醜悪な様に吐き気を覚え、ターニスを永遠に失ったかのような絶望に、狂った。
間もなく商人が盗難防止の為に傭兵を雇ったとき、自分を裏切った男を陥れる絶好の機会だと思った。
商人が苦しむ様を見たかった。
金に溺れた愚者が、無様に金に縋り、堕ちていく様を見たかった。
その為に同じく金に目が眩んだ傭兵達に手をかけるのに、何の躊躇いも覚えなかった。
楽しい遊びに没頭したのだ。
見せしめに目玉をくり抜き、手足を切断し、陰部をもぎ取り、肉を引き裂いた。
未だに食事を必要とした半妖の娘に、半ば狂気のままに彼等の心臓を喰わせた。
いつからであっただろう、たまたま喰った心臓に力があったのか、娘がターニスの居場所らしきものを感じるようになったのは...。


残虐な魔性に対する憎しみや復讐心――かつて浮城に在籍していた元破妖剣士は、そんなものを嫌というほど見て来た。 そしてそんな人間を救う為に、数々の魔性をこの手で葬り去って来たのだ。
だが浮城を出奔し、あちこち連れである深紅の青年と旅をして、魔性もまた人間に陥れられ、恨みを抱いてもがき苦しむ姿を多々見て来た。
魔性だけに非があるのではないのだ。
人間だけが魔性の被害に遭っている訳ではないのだ。
どちらを善と呼び悪と呼ぶのか、ラエスリールには分からない。
それは人と魔の両方の血を引く、半人半妖ならではの、中立的な意見であった。

理由が何であれ、この緑の妖鬼と深縁の半妖の娘は、おびただしい数の人々を惨殺して来たのだ。
それが許される事だとは思わない。

それでも...。
凝り固まった憎悪と狂気に溺れて欲しくはなかった。
ター二スの為にも、絶望の淵から這い上がって欲しいと思った。

「正気に戻ってくれ...お願いだ...」

感情が高ぶって、自分の琥珀の瞳が、金色の光を帯びるのに気付いて、慌てて瞳を閉じた。
力でねじ伏せるのでは、意味が無いのだ。

「お父様...人間に肩入れする眷属など、裏切り者も同然。 それにこの娘の心臓は、とても力に溢れていますわ」

届かない...。
ああ――自分の想いは、狂気に我を失った妖鬼と半妖の娘には届かない...。
何ともいえない悲しみが押し寄せてきた。

「この娘の心臓を喰らえば、或いは...」

激情に駆られた父親に応えようとする、娘の歪んだ愛情もまた。
分かってしまう。
理解出来てしまう。
自分も、父の愛情が欲しかった。
自分は無力だったから、あまり構っては貰えなかったけれど――それでも父が大好きだった。
瞑ったままの瞳から、涙が溢れた。

「...そうだ...そうだ、ターニスを...」

反芻する緑の妖鬼の瞳は狂気を通り越して、焦点が定まらず、まるで魂が宿っていないかのようだった。
ラエスリールの象牙のような頬に涙が伝った。
緑の男の剣の柄を握る拳が震え、切っ先がラエスリールに向かう。

魅了眼で縛るしか...道は無いのだろうか...。
魔力をそこそこ使えるようになった今でさえ、無力で不器用な自分に嫌気が差した。

ヒュッと剣が宙を伝う気配が感じられ、行動に移そうとしたまさにその時。

緑の妖鬼の動きがピタリと止まった。深縁の女もまた動きを止める。
強大な妖気が辺りを支配した。
この気配は...これは...。
妖貴...?
罠?

おそるおそる色違いの瞳を開けてみると、自分を襲おうとした二人は力で出来た鎖で雁字搦めに縛られていた。
背後を振り向いて力を放った主に目を移す。
「...闇」
...主、と言いかけて口をつぐんだ。

庇っていたと思っていた『屈強の男』はおらず、代わりにいたのは...それは――顔の造作こそ瓜二つだが、身に纏う色彩も、気配も、顔に浮かべる表情も、性格さえ、何もかも自分のよく知る青年とは違う者。

「鎖縛...」

なぜ自分が封じた筈の妖貴が、こんな所にいるのか?
呆然と、まさに呆然と彼を見つめながら、緊張の為に身体が硬直する。
対照的に、鎖縛と言えば釈然としないながらも、張り詰めた空気は無かった。

「全く姫さんも危ない橋を渡るもんだ」

最後に会った時よりも、格段に美しくなったラエスリールを見て、鎖縛はくしゃりと顔を歪ませ,
ぎこちなく笑った。
釈然としないのは、身動きが取れない、緑の妖鬼も半妖の女も同じだった。

「我が眷属が二人も! わざわざ人間に化けてまで、なぜ私達を陥れるような真似を!?」

聞きたいのはラエスリールの方だった。何がどうなっているのかさっぱり分からない。

「なぜって...私はただ...ターニスさんの役に、立ちたかっただけで...」

鎖縛も首を傾げる。
てっきりこれは深紅の青年の、性悪な嫌がらせだと思っていただけに、ラエスリールの登場は想定外の事だったのだ。

はー、とわざとらしく盛大な溜め息が聞こえて来たのは次の瞬間だった。
同時に、バチン、と音がして、緑の妖鬼が張った結界が崩壊する。
誰がやったのかは、いうまでもなく。
風に揺られる森のざわめきが聞こえ始め、静寂から音がよみがえった。

「お前ら二人揃ってて、なんでこんな簡単な『話し合い』に手間取るかねえ? こいつらもこいつらだ。せっかくラスがあの女の名前まで挙げて事を穏便に運ぼうってえのに、それすらも分からねえ馬鹿だと生きてる価値無いぞ、おい。 全くあの女も、こんな救えない奴のどこがいいんだか。 ラスの『拾い物』の付録とはいえ、よりによってこんな皺寄せを食らうとはな」

言いたい放題とは、この事をいうのではないだろうか?
何だかこの深紅の青年が、全てを引っ掻き回してくれた元凶のような気がして来た。
こういう時の信用度は、日頃の行いというものに比例するものなのだ。

「何だか、全て私の所為のように聞こえるのだが...」

ラエスリールだって、文句の三つや四つ...いや、七つぐらいは言いたかった。
だがそれらが口を突いて出てくる前、「ラスッッ!!」
いきなり横から強い力で飛びつかれ、ぎゅっと抱きしめられた。
そしてその人物が姉とも慕う、砂色の髪の捕縛師だと知った時、いよいよラエスリールは目を白黒させる事になる。

「えっ、あっ、サ、サティン? ...何で、こんな所に...? しかも鎖縛と...」

鎖縛は自分が封じた妖貴であって、サティンは彼に護り手を殺されたのだ。
遺恨があるはずだ。
あんなに架因を失って、悲痛に明け暮れていたのだ。
何をどうやったらこの二人が一緒にいるというのか?
いくらラエスリールでも、さすがに妖鬼討伐の為に派遣された浮城の人間が、サティンだという事は理解出来るのだが...まさか...鎖縛は...。
あまりにも悪趣味で、しかもいかにも連れの青年がやりそうな事だと、ある疑問を胸に抱いて、ジロリと闇主に目を向けると、そんなラエスリールの様子に気付かない振りをしているのか、思い切り無視してみせた。

「ラス...ああ...ラスっっ! 元気そうで何よりだけど、でも、あなたったら本当に色んなもの引っ掛けるんだからっ! 何ったって今回は私達まで巻き込んじゃって...って、再会出来たから言う事は無いけれど! でも! 闇主っ!」

ビシイィッ、と深紅の青年を指差す。
怖いもの知らずのサティンの『柘榴の妖主さま』の呼び捨てに、鎖縛の顔がヒクリと引きつった。
当の本人は「うん?」と返しただけで、さして気にした風でもなかったが。

「今回のアレはかなりはた迷惑だったわよ、生きた心地がしなかったもの。しかも!こいつらは浮城の獲物よ。 私達が手ぶらで帰ったら、上層部に何を言われるか分からないわ。 不安材料をこれ以上増やしたくないから、何とかして頂戴よね」

破妖剣士と違って、捕縛師は封じたという証拠を求められるのだ。
視界の隅で青くなっている鎖縛をよそに、闇主は実に楽しそうに、ぽんと手を叩いた。

「ああ、そうだったな、それで浮城への献上物は何匹だって? 一匹?」

確かに、依頼が来たのは雑魚妖鬼一匹だけである。
闇主は何やら考えた素振りを見せながら、パチン、と指を鳴らしてみせた。
とたんに一匹の妖鬼がサティンの目の前に現れた!

「きゃああっ、ちょっとっ! 何か一言くらい言ってから出現させてよね!!」

叫びながらも、しっかり捕縛道具を握っている。

「なに、未知数がでかい方が、新鮮な驚きがあるってもんだろう?」

にやりと笑いながら、鎖縛に向かってひらひら手を振った。お前もさっさと手伝え、という意味らしい。 

「あ、闇主っ! こいつはっ! 紅れん...むぅ」

紅蓮姫、と叫びそうになった口を、闇主の手が乱暴に塞ぐ。

「あれはお前の獲物じゃない。 それにあの妖鬼なら文句はないだろう? お前だって仕留めたがってたじゃないか」

そうなのだ、あの妖鬼はターニスの森で『共食い』をしながら、妖鬼にしてはとんでもない命数と力を手に入れていたのだ。 でもたかが証拠隠滅の為に、ここまで強い妖鬼でなくともいいのではないか?

「心配ない、あいつが付いている。 さて、こっちはこっちの問題を片付けないとな」

呑気に言い放って、緑の妖鬼と深縁を纏った半妖の女に向き合った。
こうして落ち着いて見てみると、この半妖の女はターニスにどことなく似ていた。
瞳に宿る激しい憎悪は相変わらずだったが、少なくとも闇主の出現とともに戦意は喪失したようだった。
無理も無い。
本性を晒している闇主の妖気は尋常ではなく、一介の妖鬼が恐怖に立ち竦むのも道理と言えた。

「なぜ...私達に干渉なさいます? ターニスの名前まで使い、人間に化けて釣ってまで、私達にこれ以上何を求められるのです!?」

緑の妖鬼にしてみれば、餌を庇うように現れた娘が眷属であり、しかも庇った餌は人間に化けた顔見知りの眷属、更に強大な力を持つ深紅の魔性が現れたとなれば、混乱状態なのに違いない。
この茶番劇が何なのか全く分かっていないのだ。
ターニスと聞いても素直に話を聞こうとしなかったのも、人間に散々裏切られた妖鬼が疑心暗鬼になっていたからに他ならない。

「あのな、あいつらはともかく、こっちは完全な尻拭いってやつだ。不本意ながらあの女に借りを作っちまった。そしてあの女はお前達に会いたがっている。分かるか?」

「...その言葉を、どう信用しろと...?」

証拠が無い上に、上級魔性は妖鬼など塵芥としか思っておらず、遊びと称して嬲り殺すような事を平気でするのだ。
今回が例外である筈が無い。
はー、と今回何度目かの大仰な溜め息が聞こえた。

「これだから悲劇の主人公ぶってる奴らってのは...」

救えない馬鹿が多い...言いながら、にょっと深紅の青年の肩から現れた六つ目の小鬼を弄ぶ。

「希囲!」

信じられないといったように、目を丸くしたのは緑の妖鬼であった。
『キイ』がバサバサと小さな羽をばたつかせて、妖鬼の肩に舞い降りた。
この小鬼はターニスに会う以前から、彼女が大切にしていたものだった。
それでは、強大な力を持つこの深紅の魔性が言う事は...。
この色違いの瞳を持った美しい娘が、涙を流してまで必死になって、訴えていた事は...。
本当に...?

「お父様...」

深縁の美女の瞳から涙が溢れた。
ふとターニスを知るという二人に目を向けた。
寄り添うようにして佇む二人は眩しく美しかった。
そして気付いた。
朱金を纏う、琥珀と深紅の色違いの瞳を持つ美女は、完全な魔性ではないのだ。
この娘は...自分の娘と同じ...?

何という事だろう。
自分は憎悪に狂って、娘の幸せなど考えもしなかったのだ。
ターニスの居場所を知りたい自分が故に、娘は喰いたくもない心臓を涙を流しながら喰らっていたのだ。
目の前の二人のように――あるいはかつての自分とターニスのように――娘が他の誰かと持ち得たであろう絆も、愛情も、何もかも自分の犠牲になって...。
緑の妖鬼はうなだれた。

「...憎悪からは、憎悪しか生まれない。 諦めないで...幸せは、きっと来るから...」

ラエスリールの宝石のような色違いの双眸からも、涙が溢れた。
この美しい娘が、いままでどんな人生を歩んで来たのかは分からないが、痛みを知った上での心からの想いだという事は分かった。

「信じれば...きっと...」

ああもう! とそんなラエスリールの涙を苛立たしげに手で拭いながら、深紅の青年は、緑の妖精と深縁の美女に向き合った。

「あの女のいる森に転移(とば)してやるからな、勝手に探せよ。 後は知らん」

すい、と深紅の青年が片手を上げると、二人の姿は跡形も無く消え失せた――。
まるで、もとから何も存在しなかったかのように。
――ありがとう、風に乗って声が聞こえたような気がした。

「なんでお前が泣くんだ」
「だって...」

あまりに切なくて。
随分と長い間、愛し合った二人は離ればなれになり、半妖の娘は憎悪の犠牲となった。
全ては魔性と人間の間にある、深い溝ゆえに――。
自分も、もしかしたら歩んだかもしれない道。
あのとき闇主が気まぐれで自分を諌めてくれなかったら、きっと歩んでいただろう悲劇の道。
嫌だ、と思った。
あの二人のように、あんなに長い時間を闇主と離れて過ごすなんて、嫌だ、と。

「最初から私に『キイ』を預けてくれれば、もっと穏便に事は済んだ筈じゃないか」

「あんだけ悩んで口で『説得』したがってただろう」

「自分だって口で説得するのを諦めたくせに」

「俺は面倒くさい事なんざ嫌いなんだよ」

ラエスリールの涙が止まるまで、軽口をたたきながら彼女の肩を抱いていた闇主が、やれやれと天を仰いだ先には、捕縛を終えて肩で息をするサティンがいた――。


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