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ターニスの人探しを引き受けたは良いが、狂気に身を浸した妖鬼にどうしたら人間を殺める事を止めろと、説得出来るだろうか? お世辞にも口が達者とはいえないラエスリールは、そんな自信などカケラも持たなかった。 嘘八百でもそういう事なら大得意、という相棒に頼もうという思惟は、えんえんと悩み続けているラエスリールから、その時完全に欠如していた。
大体、自分達がその妖鬼をターニスの住む森に連れて行ったら、浮城の獲物を横取りする事になるではないか。 だがそれは、自分が少々魔の力を使えば、数匹の追っ手の妖鬼くらいおびき寄せる事が出来るわけで、派遣された人間は捕縛師だというから、彼等に一匹だけ残して、後は自分が紅蓮姫で片付ければいいのだ――ここで浮城の人間にバレる云々の話も、追っ手の妖貴に見つかったら云々も...完全に抜け落ちていた。

転移の合間に難しい顔をしているラエスリールに気付いたのか、深紅の青年がこつん、と額をつついた。
いつの間にやら、気が付くと、またもや森の中にいた。
闇主によると、キスタという街の郊外らしいが、詳しい地理はラエスリールには分からない。

「おい、何を物騒な事考えている?」

物騒とはなんなんだ、と少しむっとしながら先程考えてた事を告げた訳だが、あまりと言えばあまりの不器用な内容に、闇主はこれ見よがしとばかりに溜め息を吐いてみせた。
自分の事ならともかく、他人の為なら危険を顧みず、火の中水の中。
少し前に、命に関わるような大怪我をしたのに、である。

「馬鹿! だから危険な事に自分から飛び込むなと、何度言ったら分かるんだ! 大体な、お前の猪突猛進のとばっちりを食らうのは、俺だぞっ、俺! 今回のことだって不可攻略だったとはいえ、お前の怪我のために、添い寝までしてやったんだぞっ! 少しは保身に気を使えって言ってんだ」

「...そっ、添い...」

目の前の娘が、一瞬にして耳まで真っ赤になった。


ラエスリールは知らない――あの夜彼女がどれだけ危険な状態にあったのかを――。

満身創痍のラエスリールをターニスの家に運び込んだ後、結界を張って少しでも治療を施そうとしたものの、妖貴達の気配が思いのほか近くにあり、断念せざるを得なかった。
だがやはりラエスリールの強運というのか何というのか、血で汚れた彼女の身体と傷を湯と布で清めていたター二スの肩から、六つ目の小鬼の『キイ』がひょっこり顔を出し、ぺろぺろと傷を舐めながら、治療を始めたのだ。
妖主である青年がするそれよりは、随分とゆっくりで粗めの治療だったが、力を悟られる事無くラエスリールを癒せる事は、青年に取って好都合だった。
そこで彼は、妖貴達を欺く術を練ることに専念したのである――土壇場というのは、なかなか術の開発に向いている状況であるらしく、護るものを抱える青年は、柘榴の妖主と言わしめたその力を、遺憾なく発揮させたのである。
つまりは自分達の気配と、ラエスリールの血が滴る空間ごと、無秩序な転移を繰り返すという仕掛けであり、更に『空間』に付随した気配は、時間と共に消失するというものだった。
血眼になり、躍起になって自分達を捜していた妖貴達は、面白い程あっさりと彼の術中に嵌った。

その一部始終を、『愛する女の命の危機に茫然自失している青年』と勝手に勘違いしたターニスは、ラエスリールの身体の清めが終わるなり、安心させるようにささやいたのだ。

『しっかりしなさい。こんな時こそ、お前さんがこの娘を護ってやらなきゃだめだろう?』

ターニスはラエスリールの手を取ると、その肌のあまりの冷たさに、心配そうに青年を見やった。

『今夜が正念場だねえ。薪を焚いてあげるけど、お前さんはこの娘を温めておやりよ』

ぽん、と青年の肩をたたき、ターニスは部屋を後にした。
ラエスリールの顔は、昇って来た月光に照らされて、青年の目には随分と蒼白に映った。
浅い呼吸を繰り返す唇は、血の気を無くして紫色をしており、呼吸さえしていなければ、生きているかも疑わしい姿だった。
あの時の、紅蓮姫に貫かれたラエスリールの無惨な姿がまざまざと甦って来た。

ラエスリールの冷たい頬が胸に触れた。
娘の肢体が青年のそれに重なる。
脚と脚が絡み付く。
夜着を纏っただけの娘の身体から、凍えるような冷たさだけが伝わって来た。

『...手間、かけさせやがって...』

苦々しくつぶやいた。
ひどく心臓に悪い。
ふと、ラエスリールの太腿の傷を舐めている『キイ』に目をやった。

『俺の特権を横取りしようなんざ我慢ならねぇが、まあ、いい』

一瞬怯えたように固まった『キイ』だったが、自嘲気味に苦笑を浮かべた青年を見やって、ほどなくまた治療を再開させた。
そんな小鬼を視界に留めながら、彼はラエスリールの背中にそっと両腕を回したのだ――。

そんな事など、ラエスリールは知らない――。



「...どっ...どうせっ、私には、至らない部分があると思うしっ...融通が、利かないと言われてもっ...」

仕方ないとは思うけれど、と続けようとしたが、闇主の親指がすっと唇に触れた途端、封じ込められた。
真っ赤になって狼狽しきっているラエスリールをよそに、闇主の指は頬の輪郭を伝って、つややかな黒髪をやさしく梳いた。

「...あんな思いは...もう御免なんだよ。 ついでにお前が、苦しい思いをするのも嫌だ」

何を思い出したのか、苦々しい口調で告げる闇主の深紅の瞳には、偽りの感情は全く見えず、『お前が傷つけば、俺も傷つくのだ』と言外に告げられた気がして、返す言葉を失った。

「...闇主...」

やっと出て来たつぶやきと同時に、ふと深紅の青年が目を細めた。

「闇主...?」

闇主を見つめる瞳に、いぶかしげな光が灯る。

「やっているようだな」

にやりと意地悪そうな笑みを浮かべた闇主の顔には、先ほどの感傷の色など嘘のように消えていて。

「お前、ちょっと行って来い。 ああ、紅蓮姫も力も使うんじゃないぞ」

「なっ...」

一方的に告げると、闇主の指が、つんと額を突き、ラエスリールの意思などお構い無しに、敵地に放り込んでくれたのである。

「またそうやって、何の説明もなしにっ!!」

危険な中に飛び込むな、と言いながら、いつもいつも放り込むのはお前の方じゃないか!
ラエスリールの叫びは届かない。

「お前ってやつはっっ!!!!」


緑の妖精が振りかざす剣の先には、自由を奪われた『屈強の男』がいた――。


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