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次に目が覚めた時には、辺りがほんのり橙色に染まる夕刻だった。
周りを囲む魔性の妖気は相変わらずなのに、襲われても死んでもいない状況にいささか疑問を覚える。
だがその疑問も、闇主の結界が張ってあるのを感じて、すぐに納得に変わった。
肩の傷はもちろん、太腿にざっくり負った深い傷も、傷口が塞がり痛みも感じない程度には癒えていた。
ぐっと腕に力を入れて身体を起こそうとする。
だがやはり力が入らず、一瞬気が遠くなってまた枕の上に舞い戻ってしまった。
相当衰弱しきっているようだ。

『無理するんじゃないよ、随分と出血が激しかったんだから』

脳裏にあの女の言葉がひらめいた。
ああ、それで、か。
身体は魔性の筈だというのに、いつまでも人間という枷にハマりまくっているのが、何だか情けなくて溜息が漏れた。

そういえば、妖貴の攻撃を受けて転移の時に気を失ったんだっけ。
連れの青年がどうやって振り切ったのかはわからないが、妖貴とおぼしき気配は近くには感じられない。
そこまで考えた時、不意にドアが開き、美味しそうな匂いとともに慣れ親しんだ気配が入り込んで来た。
人間に擬態はしていても、闇主の姿を見たとたん、急に安堵が胸に染み渡った。
心細かったいう自覚は無かったが、心はこんなにも彼を求めているのだと気付いて、なんだか切なくて、涙が出そうになり、困惑した。

「なんだ、目が覚めてたのか」

闇主は持っていたトレイをテーブルに置くと、そっと寝台の脇に腰を下ろした。
彼の手がやさしく頬に触れた。
いつも傷を負って意識を飛ばすと、目覚めた時に、捨て身の戦い方を改めろだの、運ぶこっちの身にもなれだのと、苦情の嵐が待っているものだが、擬態した青年の碧眼にも安堵の光を見つけて、今回はよほど心配を掛けたんだろうという事は推測出来た。

「調子はどうだ?」

「...頭がくらくらする」

出てきた声はひどくかすれたものだった。
そりゃそうだ、苦笑まぎれに闇主がつぶやくと、そっとラエスリールの背中に腕を回し、上半身をゆっくりと起こそうとしてくれる。
だがラエスリールは、そのまま青年の胸の中に顔をうずめた。

「ラス?」
「...ん」

身体が苦しい所為か、それで精神が弱っている所為かはわからないが、何だかひどく甘えたかった。
人肌が恋しかったのか、伝わる温もりが心地いい。

「...苦しい思いをさせて、すまない」

耳元で自嘲気味にささやかれ、闇主の手がやさしく背中をさすった。
心なしか、いつもより随分と気遣いが感じられる。
彼の胸の中でかぶりを振った。

「...お前の所為じゃない」

全く力が入らなくて、ぐったりと身体を預けながら、やっとの事でつぶやいた。
いつもは闇主がいると心臓がドキドキして平静さを失ってしまうのだが、今は切ないながらも触れているのが嬉しかった。こんな風に感じる感情が何なのか、はっきりとはわからなかったが、闇主だけに向けられるそれを、悪いものだとは思わないようになっていた。
彼の唇がこめかみに触れ、軽い音を立てて離れたかと思うと、そのまま頬が重なった。
ラエスリールはただ受け入れた。 身を案じられているのが伝わって、胸が温かくなった。
しばらくこうして抱きしめていて欲しくて、色違いの瞳を閉じた。

「おい」

やや呆れたような声が降って来たのは、しばし後の事だった。

「せっかく起きたんだから、しばらくは寝るんじゃない」

闇主はそっと身体を離すと、ラエスリールを大きめの枕に寄りかからせ、テーブルの上の、湯気のたっている雑穀粥を示した。

「食べるだろう?」

こくりとうなずく。
四日間も寝たきりだったらしいので、身体は素直に空腹を訴えていた。

「これはあの人が...?」

目に浮かぶのは、水を飲ませてくれた茶毛の女性だ。

「ずいぶんと気を遣わせてしまったな...」

ああ、と頷きながら、闇主は粥をすくって口元まで持って来る。

「もっとも、『手直し』したのは俺だがな」

自分で食べれる、とスプーンを持とうとしたが、いかんせん腕がだるくて手が震える。

「ああ、いいから大人しくしてろって。 食わせてやるって言ってんだよ」

ぶっきらぼうだが、口調は優しい。
仕方なく――なんだか非常に気恥ずかしかったが――促されるままに口を開けた。
...美味しい。

「手直し?」

次々と運ばれて来る粥を食べる合間に、引っかかった言葉を聞き直す。

「あいつの料理は、言っちゃあ悪いがかなりの不味さだぞ」

闇主は渋面で、しかしどこか面白そうに告げる。
ふつう親切に怪我人を介抱し、食事の世話までしてくれる人に、そこまで言うだろうか?
だがこの男の性悪で気まぐれな性格は、人間どころか魔性の常識からも、やや...いやかなり外れていた。
そういえば浮城時代、面白がってサティンと一緒に食事の酷評なんぞして遊んでいたのだ。

「それはお前の舌が肥え過ぎているだけじゃ...」

言うや否やのうちに、外から不思議な音色が聞こえて来た。
気になる、美しい旋律だった。
はっと気付く。

「...闇主、これは...?」

この音色には微量ながらも、力を感じる。
そして周りに満ちている魔性達も、一斉にその音色に意識を奪われている気配がした。

「ああ、あの女は、木や石を彫って笛を作っていてな。それを売って生活しているんだ」

闇主が悪戯っぽい光を瞳に宿しながら、肩をすくめた。
瞬間、その肩に見覚えのある六つ目の小鬼がにゅっと現れ、バサバサと羽をばたつかせて、呑気に毛繕いを始めた。

なんという事だ。
ラエスリールは可愛らしいとも言えなくはない小鬼を凝視した。
まさか...外にいる無数の妖鬼達も...?

知ってか知らずか、あの茶毛の女性は笛の音色で魔性達を魅縛しているのだ――。


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