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――カタン。

何かを木造のテーブルかなにかに置く音がした。
...足音も。
多分、人間のものと、小動物かなにかの気配もある。
瞳を開けたいけれど、瞼があまりにも重い。
身体も...だるいを通り越して、思う様に動かせない。

「おやおや、目が覚めたかい?」

落ち着いた年配の女の声が、自分のすぐ近くから聞こえて来た。
知らない声だ。
まどろみの中、意識がゆっくりと浮上する。
うっすらと瞳を開いてみる。
...眩しい、昼間なのだろうか?
簡素だが、清潔そうな寝床に、すぐ傍にある窓から太陽の光が射しこんでいる。
緑がかった茶色の瞳が心配そうに覗き込んで来た。
...知らない顔だった。
その瞳が一瞬驚愕の色を宿したが、それもすぐに安堵の色に変わる。

「あんた、変わった色の瞳だね。四日も昏睡状態だったから、喉が渇いているだろう? ほら、水だよ」

水と聞いて、異常に渇きを覚えた。
初老の女は、先ほど近くのテーブルに置いたであろう水差しから、小さい器に水を注いでラエスリールに差し出す。
促されるままに、起き上がろうと腕に力を込めるが、「...っつ..」まるで力は入らないわ、肩と太腿に激痛が走るわ、頭もクラクラするわで涙が出て来た。

「無理するんじゃないよ、随分と出血が激しかったんだから」

そう言って茶毛の女は、そっとラエスリールの背中に手をかけ上半身を起こしながら、ゆっくりと水を飲ませてくれた。
喉に流し込まれる潤いが、身体のすみずみに染み渡って行くようであった。
二杯三杯と、一気に飲み干し、ほっと息をついたとき、ラエスリールは奇妙な感覚に気が付いた。
余りにも濃い魔性の気配を感じるのだ――それも一匹や二匹ではなく、凄まじい数の魔性の気配を!
その意識がどうやら自分の方向に向けられているのを感じる。
追っ手...? 思わず身体が小刻みに震えだす。
ラエスリールの動揺に勘違いしたのか、女は安心させる様にささやいた。

「大丈夫だよ、あんたの連れにはちょっと頼み事をしてもらっているんだ、すぐに帰って来るよ」

言われて、いつもは傍を離れない闇主の気配が近くに感じられないのも手伝って、急に不安が襲って来た。

「...うっ...うう..っあ...」

――逃げろ!
言いたい事も言えず、声もろくに出せないので、情けなくて涙が出てくる。
命の恩人を危険な目に遭わせるかも知れないというのに!
――闇主!
心の中で呼んだ。
自分の我が儘ではなかなか呼べない青年の名も、他人の為なら抵抗なく呼べてしまうのが不思議である。
――闇主...!!
こんな時ほど、思う様に動かない自分の身体と、肝心な時に傍にいない深紅の青年を呪った事は無かった。

「まだそんなに傷が痛むのかい? お前、またこの娘の傷を治してあげれるかい?」

どこまでも勘違いしたらしい女は、何かに向かって語りかける。
途端に、白髪まじりの女の茶毛からにょっと顔を出したリスに似た小動物が、ピョンとラエスリールの胸に飛び乗った時、ぎょっとした表情でそのまま意識を手放した彼女を責める者はいないだろう。

目が六つに、大きく裂けた口らかは小さい無数の牙とともに先が割れた長い舌がのぞき、それの背中には小さな羽が生えていた。
姿形はリスに似れど、それはれっきとした小鬼であり――既に酷く貧血状態のラエスリールが再びあっさりと眠りについたのは、まあ賢明だったのかも知れない。

数瞬後、ラエスリールの声を聞いて駆けつけた黒髪碧瞳の美貌の青年がドアを開けて最初に目にしたのは、気絶したラエスリールの肩をぺロペロと舐めている小鬼と、ばつが悪そうな顔をした女だった。

「まあちょっとはびっくりさせようとは思ったけど、気絶させるつもりは全く無かったんだけどねぇ」


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