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ラエスリールの傷が深いのはわかっている。
転移がどれだけ傷を負った者の身体の負担になるのかも――わかってはいるのだ。

「闇主」

震えるラエスリールの声に、「わかってる」とだけ応えて、転移に集中する。
追いかけて来る、三つの妖貴の気配は思いのほか近くに有り、しかも自分達の行く先を阻む様に三手に分かれているのだ。
妖主たる自分がその気になれば、妖貴達を撒くのは造作も無い事だっただろう――あるいはラエスリールの怪我さえ無ければ。

「闇主...!」
「黙ってろっ!!」

今度は恐れを含んだ悲痛な叫びだった。
後から気が付いた事だが、実はこの時、ラエスリールは今にも意識を手放しそうだったのだ。
空間と空間の狭間を滑るように転移する合間に、必死で自分の首に両腕を巻き付けている娘の太腿に手を這わせ、血止めの応急処置をする。
空間に残された血が目印になるほどの、大量の出血だった。

「...厄介だな」

つぶやくや否や、ラエスリールの気配がふっと弱まり、巻き付いていた腕が力を失った。
だらりとした娘の身体を抱き込んで、また転移しようとした瞬間、意識を手放した彼女の土気色の顔が目に入った。 
いつもはどんな怪我であれ、頑固にも必死に意識を保っているものだが。
血を多く失い過ぎたか?
こんな状態では、もう空間移動をさせるのは自殺行為でしかない。
三つの妖貴の気配はまだ振り切れていない場所にあったが、それよりもラエスリールの安否が先だった。
外界に降り立つしか選択肢は無い...か。
降り立つ瞬間にも結界を張り、人間に擬態して気配も押し殺す。

幸か不幸か、そこはうっそうと茂る森の中だった。
少し奇妙な気配すら充満しているが、そのお陰で自分達の気配も紛らわせる事が出来るかもしれない。
しとしとと、冷たい雨が降り注いでいた。
雨に濡れ、ラエスリールを腕に抱いたまま、大木の幹に腰を下ろし寄りかかった。
自分達を、血眼になりながら探しているだろう妖貴達の気配が感じられる。
下手に動けばすぐに見つかってしまうに違いない。
ラエスリールの今の状態と敵の数では、いわずともこちらの状況が不利であった。

誰ダ...?
...ダレカ...キタゾ...。
...侵入者カ...?
一瞬...騒ガシイ...気配ガシタゾ...。

ざわざわと無数の気配が、結界の周りを取り巻く。

...アイツラカ?
ダレ...侵入者...?

ふ、と自嘲の笑みが漏れた。
よりにもよってこんな所に降り立ってしまうとは。
この森の中には何十...いや、無数の小鬼や妖鬼の気配がひしめいているのだ。
だがすぐに気付いた。

「追っ手ではない...か」

おそらくこの森に元々住み着いていた奴らなのだろう、だが数が不自然に多い。
自分を上級魔性と知ってか知らずか、襲ってくる気配もない。
即席とはいえ、妖主の張った結界に入って来れる様な奴もいなかった。
お陰で気配が分散されて、良い目くらましになる。

ふと腕の中の血まみれの娘に目を落とした。
顔面蒼白だった。
そっと彼女の頬に触れる――血の気の無い頬は雨にも濡れてひどく冷たい。

「...ラス...」

思わず漏らしたつぶやきは、自分でも驚く程不安に彩られたものだった。
いつもは目を細めなくては直視出来ない程まばゆい朱金の魂も、今や輝きすら見いだせないほど色褪せていた。
大きな街に出れば、ちゃんとした寝床で温めてあげれたかもしれない。この深い森から一番近くの村でも徒歩で丸一日はかかるだろう。動かせばすぐに開いてしまうだろう肩と太腿の傷も、魔性としての気配を押し殺したこの状態では、癒すのに限界があった。

いっそ力を解放して治療してしまおうか。
何にしろ、複数の妖貴達が近くで詮索している状況では、力を使う行為はわざわざ自分達の場所を知らせてやるようなものなのだ。満身創痍の娘の傷は癒えるかも知れないが、その一瞬が命取りになりかねない。 このままだと、彼女の命の灯火は儚く消えてしまう。

そんな事はさせない。
そんな事は許さない。
だが状況が状況なだけに、今出来る事は至極限られていた。
羽織っていた大きめの装束で、ラエスリールの冷え切った身体ごとすっぽり覆って、抱きしめる。

もしかしたら彼女を失うかもしれない状況に、焦りがあったのかも知れない。
他の人が見れば、絶望的であろう状況に、余裕が無かったのかも知れない。
そのとき、青年にはそれしか出来なかった。
ラエスリールの微かな体温を直に感じる事で、無理矢理ひとつの不安を拭おうとしたのだ――。


だがラエスリールにはいつも強烈な運気という味方があった。


パキッ
枯れ木を踏む音がした。
はっと息を飲む気配と共に、周りに群れる低級魔性をもろともせずに、足音が近づいて来る――。

「あんた!その娘どうしたんだい? 血まみれじゃないかい」

目だけでその存在を認める。
ふっ、と美貌の青年の顔に苦笑まぎれの安堵の息が漏れた。
ラエスリールにはいつもいつも思いも寄らない助けが入る――大抵は厄介ごとも一緒に持ち込んでくれるのだが――それでも青年は、目の前の人間に頼らずにはいられなかったのである。

視線の先には、白髪の混じる茶毛と緑がかった茶色の瞳の女が、血相を変えて佇んでいた。
 

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