第八話
「乱華……乱華!」
誰かが自分の体を揺さぶっている。
誰だ……姉上……いや違う。
彼女は……。
朦朧とする意識の中、瞼を開けるとそこには心配そうに自分の名を呼ぶ愛しい恋人の姿。
「緋陵姫……どうして……痛っ」
無理矢理起き上がろうとした乱華は、頭を押さえてまた倒れこむ。
しっかり目を開けてみるとそこは自分の部屋だった。
「無茶するな。さっきまで意識がなかったんだぞ」
「すみません」
緋陵姫に咎められ、乱華はしゅんとうなだれた。
「お前が無事だったらそれで良いよ」細い手の平が乱華の髪に触れる。
「セスラン殿があなたに連絡を?」
「いや、邪羅だ。
彼が階段の下で、青ざめているお前を見つけて、部屋に運んだ後、私に電話をしたらしい」
あいつは良いやつだな。
「そうですね」
何故か素直にそう言えた。
邪羅を姉にまとわりつく目障りな奴と認識していた
乱華にとっては信じられない程の心の変化だった。
今度会ったら素直に礼を言おう。
乱華は胸に強く刻んだ。

「目覚めた時、側にいたのが貴方だった事がこんなにも嬉しいなんて」
彼女の姿が目に入って深い安堵で胸が満たされた。
傷の痛みなんて忘れてしまえるほどの安心感。
自分の顔を覗き込んでいる緋陵姫の頭を引き寄せ、
「愛してます。結婚してください」
耳元で囁いた。
「ら、乱華」
緋陵姫は真っ赤になってしまった。
「こんなみっともない姿で、言われても冗談みたいですよね」
自分はさっきまで意識が無かったのだ。
甘い夢だと思っていたら悪夢だったという
最悪の夢を見て、彼女の自分を呼ぶ声で目が覚めた。
「いや……あまりにも急で驚いてしまって」
恥かしいのか緋陵姫は顔を背けている。
「私は早く言いたくてたまらなかったんですよ。
いつもあなたのそばにいたいと願っていたから」
「私もずっとそう思っていたよ」
そう言い、緋陵姫は自ら乱華に口付けをした。
「緋陵姫」
乱華も緋陵姫の頭を抱え、頬にキスをする。
「お前と一緒にいられるだけでいい。
結婚式なんてしなくても」
「私があなたのドレス姿を見たいんですよ。
夢を叶えてくれませんか」
切実な乱華の言葉に緋陵姫は頷いた。


それから式の日取りを決めたり、招待客に
招待状を送ったりと慌ただしく日々は過ぎていった。
その間もあの悪夢が乱華の頭の中から離れなかったのだが。
気がかりなのは姉のラエスリールと、連絡が取れないこと。
彼女は何処にいるのだろう。
きっとあの赤男が側にいるに違いないはずだから大丈夫だろうとは思う。
幾分不愉快だが、彼女が無事であるならそれに越した事は無い。
乱華は、胸を過ぎる不安を掻き消そうと必死だった。
緋陵姫へのプロポーズから既に3ヶ月が経とうとしていた。
結婚式までのカウントダウン。
乱華はカウントがゼロになるまでに、あの二人が帰ってくることを信じてもいない神に祈り続けた。



結婚式前夜。
乱華は緋陵姫との明日からの日々に想いを馳せつつ、
未だ会えない姉ラエスリールのことを考えていた。
彼女は無事なのだろうか。
あの男と一緒なら大丈夫に違いないが、何の音沙汰も
ないのでは流石に不安になる。
何かが途切れたように彼女だけがいないのだ。
「あの夢が現実になればきっと明日二人は現れる」
一人呟いて彼は布団に転がった。
姉が残していった通帳とカードを使い、既にお金を下ろし、
新生活の準備も万端なのだ。
後はラエスリールさえ戻ってきてくれれば・・・・。
そう考えているうちに彼は眠りについた。



「おはようございます。起きてますか〜」
間延びした呑気な声が部屋の外から聞こえた。
セスラン殿に違いないなと乱華は思いっきり確信し、扉を開ける。
「心配しなくても起きてますよ。こんな大事な日に寝坊する馬鹿が
何処にいるというんです?」
笑いながら軽口を叩いた。
「ははは・・緊張しすぎて熱とか出す人いるじゃないですか。
ま、そういうのを案じてたんですよ」
「よく眠れましたか」
「ええ・・。」
「それなら良いんですがね・・・・」
何か言いたそうにセスランは口を噤んだ。
乱華が、不安を感じていることに気付いている。
「・・・姉上とあの男は必ず来ます」
強い口調で乱華は言った
「必ず」
「ああ・・でも彼らは人を驚かせるのが得意ですしね。
案外突拍子もない登場したりするかもしれませんねえ」
顔に笑みを刻み、のんびりと言うセスランの言葉に、乱華は一瞬ぎくりとした。
もし本当にあの夢そのままだったとしたら・・・。
「あはは。在り得るかも」
乱華は笑いながら立ち上がった。
慌てて部屋を飛び出る。
セスランが驚いたように此方を見るが構わなかった。
きしむ階段をゆっくりと下りていくと、階下で邪羅が待っていた。
「よお。いよいよだな。一応おめとでとうと言っとくよ」
「・・・ああ」
思わず苦笑いする乱華である。
こんなやりとりも今日で最後かもしれないと思うと
何故か少し寂しい気持ちになった。
以前なら決してこんな気持ちになったりしなかっただろう。
不思議なものだ。
するりと邪羅の側を通り抜ける。
「あ、、ちょっと待てよ」
「何だ」
「誰々呼んでるんだっけ?」
呼んだ中には自分の知り合いはほとんどいないはずだった。
ほとんど邪羅が呼んだ客ばかりだ。ラエスリールの知り合いもいるが。
どちらにしても今更のセリフである。
「私と姉上の知り合いでは翡蝶さん、識翠さんの二人、仲人のセスラン
殿とマンスラムさん、サティンさんの5人だ。あとは不本意ながらお前が呼んだ客だろう。」
自分の結婚式でもないくせに。
乱華は、吐き捨てた。
「話したら皆来たがったんだぜ。呼ぶしかないだろ」
「人の承諾もなしに呼んだ上、前日までそのことを隠しておくなんて良い度胸だ」
一気に険悪なムードが広がった。
「わりい悪い。まあ良いじゃんか楽しくやれればさ」
あくまでお気楽な調子の邪羅。
「もう会うこともないだろうからな」
そう思えば気も晴れた。
例え面識の無い人間が結婚式に出席するとしても。
リーンリンリン………
ふと気付くと電話が鳴り響いていた。
乱華は急いで電話口に向かう。
「もしもし?」
「乱華か」
「あ、姉上!?」
電話の声は姉ラエスリールのものだった。
乱華は驚きと喜びを隠せない。
「今まで何処にいらしたんです?どれだけ心配したと」
「すまない・・色々あってな」
ラエスリールの言葉に乱華はしみじみ納得した。
あの男といれば色々あるだろう。
面倒ごとが大半だろうが。
「今日は何故急に電話を・・・?」
「お前の結婚式の祝いをと思って」
知っていたんだ。
「ありがとうございます。まさかお祝いして頂けるなんて」
このまま行方が分からないままだと内心諦めかけていた。
「闇主の従兄弟の鎖縛から聞いたんだ。彼はサティンから聞いたらしいが」
なるほどその繋がりがあったか。
乱華は一瞬笑ってしまう。
ということは・・・。
「姉上は鎖縛とかいう者の家へいるんですね」
乱華は確信した。
「そうだ」
そんな近い場所にいたなんて。
「でもあの男と二人きりじゃなかったんですね」
乱華はほっとしたように息をついた。
「あいつ・・闇主は私と二人だけが良いと聞かなかったんだが、
まだ結婚もしてないのに一緒に暮らすなんておかしいだろう。
だから駄目だと言った。一人で暮らそうともしたが、あいつがラスを一人になんてして
おけるものかなんて言い出して、結局あいつの従兄弟の家に
世話になることになったんだ」
あの男は悪い虫がつかないよう側にいなければ気がすまないに違いない。
つくづく赤男らしい独占欲の強さだ。
「何はともあれ姉上が無事で良かったです。
で・・結婚式出席して下さるんですよね」
確認するように乱華は言う。
「いや・・ちょっと無理っぽいんだ」
「え・・・どうして」
乱華はしゅんと気分が落ち込んでいく。
ラエスリールはそれには答えず、
「・・・また連絡する。今日は本当におめでとう」
ガチャ・・ツーツーツー。
心からラエスリールは乱華を祝福していた。
いつものあの優しい声が乱華の胸に響く。
そして電話は途切れた。
「姉上・・・・・。」

彼女はどうしたんだろうか。
近くにいたのに今日まで連絡もくれずに、突然の電話は性急なもので。
無事にいることがはっきりしたけれど、あまり喜べなかった。
心がざわついている。


御めでたいはずの日はこうして幕を開けた。



乱華が複雑な気分で結婚式に向おうとしていた頃、ラエスリールは・・・
「ああ・・・あんなこと言っていいのだろうか。絶対に落ち込んでるぞ」
「良いんだ気にするな。俺の言うとおりにしておけばいい」
やはり赤男こと闇主と一緒にいた。
何やら悪巧みに加担させられているらしい。
「乱華ごめん」
ラエスリールは小さく溜息をつく。
「シナリオ通りに進んだら面白くない。結婚式に余興は付き物だ」
誰も闇主を止めることはできない。
「別にそんな大した事するっていうんじゃないさ・・・」
闇主はニヤリと笑みを浮かべた。
「乱華はもう充分驚いてるよ。今まで連絡してなくて急に電話かけたからな」
「あのガキも姉離れする良い機会になったんじゃないか」
「………とっくに姉離れしてる気がするけど」
ラエスリール小さく微笑む。
八百屋の店頭で、二人は話しこんでいた。
そこへ奥から茅菜が顔を覗ける。
「ラスー準備できたわ。行こう」
茅菜は楽しそうに微笑んでいる。
初めて見る結婚式というものに浮かれているのかもしれない。
「ああそうだな」
ラエスリールは茅菜に向って笑いかけて、
「そういえば鎖縛も行くのか?」
「兄貴ならとっくにサティンと一緒に行ったわよ。
やっぱりあの二人仲良いのよね」
それは違うぞ茅菜と言いたかったが、ラエスリールはこらえた。
子供の夢を壊すなんてことできるわけない。
「じゃあ私達もそろそろ行こうか」
ラエスリールは茅菜と手を繋いだ。
背後から、嫉妬の炎が放たれている。
「ラス・・このガキ本当に連れて行くのか」
いかにもうっとうしい。面倒なと声から滲み出ていた。
「何よ。いつもラス独り占めしてるんだから今日くらい
一緒に行っても良いでしょ。大人は引き際が肝心って知らないの」
「……んだと」
「闇主、子供相手にむきになるな。そうだ……
三人で手を繋いで行けば良いんじゃないか」
ラエスリールは名案だと言うばかりにポンと手を打ち、
あいている方の手を闇主に差し出した。
「何か微妙に嬉しくないような」
闇主はぼやきつつもラエスリールの手をしっかりと握った。
「ちょっと複雑。でもラスに免じて許してあげる」
強気に茅菜は言った。
「くそガキめ」
「仲良くしろ」
ラエスリールが宥め、三人は歩き出した。
式場までさほど距離はない。
ゆっくり歩いて行っても間に合うだろう。

邪羅は母親の家に来ていた。
「あのさあ母ちゃんの結婚式じゃないんだから」
「やかましい。正装して何処が悪い」
何やら白煉は、バッグにドレスを詰め込んでいる。
自分の髪色と同じ純白のドレス。
まるで花嫁が着るもののようだ。
「気分だけでも味わいたいと思うものだろう」
そう言い、白煉は笑みを刻んだ。
何て恐ろしく美しい。
「母ちゃんにもそんな所あったんだな」
プライドが高く自尊心の固まりのような母親の
意外な一面を見せられて、邪羅は呆気に取られていた。
口をぽかんと開けて。
「父ちゃん呼ばない方が良かったかな………」
ボソッと邪羅は呟いた。
その瞬間、白煉が即座に振り向いた。
静かに怒りのオーラをたぎらせている。
「何といった?」
白煉が掴みがからんばかりの勢いで、詰め寄る。
「ヒッ………」
邪羅は、驚きすくみあがった。
哀れなほどの涙目だ。
壁の方に後ずさりながら、
「だってさ、母ちゃん呼んだら父ちゃん呼ばないわけにはいかないじゃん」
言い訳じみたことを口にする。
「その理屈は何処からきておる。わらわがあの男の
顔など見たくないことなど知っておろうに」
それでも白煉は怒りを押さえ込んでいた。
邪羅の結婚式でも何でもなく関わりのない他人の結婚式に、
自分も見物にいくのに人の事ばかり言えるわけがない。
それに、自分の式でもないのに、面白がって他人に
言いまわる息子というものに血というものを感じてもいたのだ。
「あの……母ちゃん?」
突然、黙り込んだ母親に邪羅は恐る恐る声をかけた。
「何じゃ」
「お願いだから、式の最中に喧嘩はやめてくれよな」
「無論分かっておる」
邪羅は、母親と共に式場に向った。
その時、別方向から、車を走らせている紫色の髪の男もいた。



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