第七話
乱華が考え続けていると、マンスラムがお盆を持って戻ってきた。

「さっきから本当にどうしたの?」
「ええ。マンスラムさんに重要なお話があって来た
はずなのですが、思い出せないのです」
「記憶の一部消失ってやつかしら。何かに夢中になったりすると
それ以前にしていた事とか、やろうとしていた事を忘れちゃったりする
ことがあるって聞いたことがあるわ」
「そ、そんな馬鹿な。」
乱華は、マンスラムの言葉に大ダメージを受けた。
「間違いなくキーワードはピアノね」
マンスラムは言った。
「随分久しぶりにピアノを弾きました。
たまらなく懐かしくて遂好き勝手に弾いてしまったのです」
「チェリク…お母様との想い出?」
「ええ。家族一緒に過ごしていた頃、よくピアノを弾きました。
父も母も姉も喜んでくれたので、一生懸命練習していたんです。
母上がピアノに合わせて歌い、笑顔が絶えませんでした。
私にとってピアノは特別なんです。」

「じゃあ絶対手放しちゃ駄目よ」

「えっ?」

「ずっとピアノを弾くのを止めては駄目」

マンスラムは乱華に道を指し示すような言葉を発した。

「マンスラムさん」
「あんなに上手いんだから弾くのを止めたら勿体ないわ」
「思い出しました。お騒がせしたようで申し訳ありません。
この間返してくださったお金ですが、やはり受け取ってください」
「そのお金は本当にいいのよ。だけどこのままじゃあなたの気が
収まらないでしょうし、預かっておくわ。それでいい?」
「預かる?」
「あなたがいつか必要になる時まで預かっておくの」
「ありがとうございます」
「今まで返してもらったお金に関しては、ラスから聞いてね」
マンスラムは気にかかる笑みを浮かべた。
「わかりました。本当はお電話をさせて頂こうと思っていたのですが、
直接伺って良かったです。私にとって何よりの収穫がありましたから」
乱華は満ち足りた笑みを浮かべた。
「そう、良かったわ」
「宜しければまたピアノを弾きにきてもいいですか?」
「勿論よ。いつでもいらっしゃい」
乱華はマンスラムに別れを告げて、家路に着いた。
姉に聞かなければならないことがある。
乱華は封魔寺に戻ると、姉の部屋に直行した。
扉を静かにノックする。
「姉上、私です」
寝ているのか、何度も呼び掛けても返事が無い。
ドアノブに手を伸ばす。
かちゃりと扉は簡単に開いた。
カギが掛かっていない!?
「すみません姉上、失礼します」
乱華は一瞬の躊躇いもせず扉を開き、ラエスリールの部屋に足を踏み入れた。
「姉上、いらっしゃらないんですか?」
もう一度読んでみるが返事は無い。
「あれは…………?」
よく見るとベッド手前の文机に一通の手紙と通帳、カードが置いてあった。
乱華は手紙を手にとり読み始めた。
『乱華へ、口ではいいにくいので紙に書く事にした。
マンスラムさまから大筋聞いていると思う。
今まで二人で返してきたアパート修復費用は、
全てマンスラムさまから返してもらったんだ。
そして今は私が預かり、半分をお前の口座に振り込んでおいた。
私たちの今後の為に使って欲しいとのマンスラム様からの好意だと思う。
アパートの修復費用は全て保険がおりて問題ないらしい。
私から伝えてほしいとマンスラムさまから言われていたんだ。
黙っていてすまない。
追伸=セスラン様の所でこのままずっと暮らしていくことはできない。
お前だって分かっているだろう。あれから半年がたつ。そろそろ
封魔寺に別れを告げようと思う。乱華も考えておいてくれ。
私は次に住む所は決めてある。
今日はそこへ行ってくる。セスラン様も了解済みだ。
ラエスリール』
乱華の瞳から涙がこぼれた。
「姉上、ありがとうございます。嬉しいです!大切に使わせていただきますね」
乱華は自分の名前が記名された通帳とカードを手に、自分の部屋に戻った。
「姉上……………」通帳の中を開くと、
乱華が返済したお金よりも少し多いお金が振り込まれているのがわかった。
マンスラムと姉の気持ちが胸に染み渡る。
大切に使わなければ。
乱華はそう考えた。
乱華はまた自分の部屋を出て、階段を降りた。
階段先の黒電話の受話器を取り、じりじりとダイヤルを回す。
トゥルルルルル………。
「はい、もしもし」
「先ほどはお邪魔しました。乱華です。お金の方ありがとうございました!
言葉に表せないくらい感謝しています。」
「その分だとラスから話を聞いたようだけど、そんなに重く考えなくていいのよ。
あなたが好きに使えばいいの。乱華君のお金なんだから」
「嬉しいです」
「そんなに感謝とか言うのなら、行動で現して欲しいわ」

意味有り気なマンスラムの言葉に、乱華は電話ごしで首をかしげていた。

「え?」
「結婚費用に使いなさい」
「そんな、姉上がまだなのに私が先になんてとても」
乱華は照れながら狼狽している。
「誰もあなただけに結婚しろなんて言ってないでしょ!
ラスと闇主さん、乱華君と緋陵姫さんの結婚式を挙げたらって云う事よ」
マンスラムは噛み砕いて説明した。
「成るほどそう云うことですか………ちょっと待って下さい!!
私と緋陵姫はともかく姉上とあの男は………」
姉を溺愛している乱華にとって、姉の結婚相手は
自分が認めることのできる相手であることが絶対条件だった。
「乱華君の気持ちもわかるわ。確かにラスの彼って、
わがままで気まぐれだし、ラス以外に対してはとことん非道ですものねぇ。
唯一良い所なんてあの顔位でしょ。大切なお姉さんだから心配よね」
解ってはいたものの口に出して言われるとかなりきつい。
乱華はあの非常識極まれない闇主に頭が上がらないのだ。
「でもそろそろ認めてあげないと、可哀想だわ。ラスはそんな人でも
ちゃんと良い所を知っているから離れられないのね。
亡くなったあなたたちのお母様であるチェリクもラスと乱華君の幸せを望んでいるわ」
「………………………」
乱華は亡き母親のことを持ち出されるのは一番苦手だった。
マンスラムの言葉が痛いほど胸に突き刺さる。
「ずっと緋陵姫を待たせたままだったので、彼女との
約束をそろそろ果たす頃だと思いました。
マンスラムさんの言葉でやっと決断できるかもしれません」
「良かったわ。そう言ってもらえるとこっちとしても嬉しいから。

乱華君とラスで話して決まったら連絡ちょうだい。
仲人はやらせてもらうわよ亡きチェリクの親友として」
マンスラムはかなり張り切っているようだ。
「はいわかりました。また連絡します。
すみませんが仲人の方は、お願いしたい方がいるので」
「うん良いのよ気にしないで。連絡よろしくね」

マンスラムの声は少し残念そうだったが、乱華はいちいち気にしなかった。
「はいそれでは」
乱華が受話器を置くとチーンと音がした。
『廊下を走ってはいけませんよ。』とのセスランからの教え通り
早足で足音を立てないように歩く。
向かうのはこの寺の主(年齢不詳)の元だ。
漆張りの廊下はピカピカツヤツヤに磨き上げられているので滑りやすい。
こんなに綺麗なのは、乱華が毎日床を拭くのを欠かさない為と、
住職のセスランがあの摩訶不思議な能力を使って綺麗にしているからだ。
乱華はセスランの私室の襖をノックした。
「失礼します」
「ちょうど一杯やってた所です。乱華君もいかがですか?」
そう尋ねるセスランはお銚子を手にしており、お猪口に酒を注いでいる所だった。
小さなテーブルの上には、片手で足りるほどの空の酒瓶か並べてある。
因みにまだ夕方の4時を少し廻った所だ。
一体いつから一杯やっているのだろう。
「セ……セスラン殿、こんな時間からお酒を飲んでいらっしゃるなんて」
それでも寺の僧ですかと乱華は言いたかったが、ぐっとこらえた。

破戒僧なのは今更だったのだ。



昼間から酒を煽っているセスランを乱華は呆れ顔で見つめていた。
「今日は何だか気分が良くて気がついたらこんなに空けてしまっていました。
ああこのお酒は中々手に入らないのに」
酒瓶には大吟醸何たらかんたら金粉入りと記されている。
「セスラン殿、実はお願いしたいことがあるのです」
「おや、君が私に頼み事なんて珍しいですね」
「これから緋陵姫に結婚を申し込むつもりなのですが。仲人はセスラン様にと二人で」
いつも以上に真剣な眼差しの乱華に、セスランは面白がる様子で、
「おや、それは御めでたいですねえ。
もうそこまで気持ちが燃え上がって……失礼」
「仲人、喜んでお引き受けしますよ」
こんな酔っ払いに人生の重大なことを話すんじゃなかった。
密かに乱華は心の中で悔んだ。
セスランは明らかに楽しんでいる。
「……微妙にひっかかりますが、有難うございます。
くれぐれも宜しくお願いしますね」
額を押さえつつ乱華は丁寧に頭を下げた。
「ではこれで失礼します」
そう言って立ち上がりかけた乱華に、
「プロポーズの言葉、今度教えて下さいね」
にこっと笑いセスランは止めの一言を放った。
「あははははは……まあ気が向いたらお教えしますよ」
ひくひくっ。
乱華はひきつり笑いを浮かべて、セスランの自室を後にした。
とんでもない人に仲人なんて頼んでしまった。
乱華はがっくりと肩を落としながら電話口に向かった。
じりじりダイヤルを回して、受話器を耳にあてる。
トゥルルルル。
トゥルルルル。
トゥルルルル。
がちゃっ。
「もしもし」電話口から聞こえたのは愛しい緋陵姫の声。
あ、今日は3コールで電話に出てくれた。
意外に早かったな。
心の中で呟く乱華である。
「あ、こんにちは」
「何だ乱華か」な、何なんだ今の反応は!
まるでがっかりしたような声音だったぞ。
「……重要なお話があるのですが」
「重要?」
「前、交わした約束は今も有効ですか?」
いきなりすぎたかな。
乱華の心臓はばくばくいっていた。
「憶えてくれていたんだな。私はずっと待ってたんだぞ。乱華の口からその……」
恥ずかしいのか、それきり緋陵姫は言葉を切ったまま黙り込んでしまった。
「ごめんなさい。私からきちんと言うべきでした。
借金の話は最初からなかったんです。
それを一刻も早くあなたに伝えたくて……」
「本当なのか?良かった……」
安堵に満ちた声が電話越しに伝わってくる。
今すぐ緋陵姫の側に飛んで行きたい。
その気持ちが膨らんで。
「これから会えませんか?話の続きをお伝えしたいんです」
乱華の声には心なしか切ない響きが宿っていた。
こんな声で言われたら逆らえるわけないじゃないかとは緋陵姫の心の声である。
「そうだな、図書館で会おうか」
「はい!超特急で向かいます」
恐ろしいほどの意気込みが、乱華からは伝わってくる。
緋陵姫はくすっと笑って
「待ってるから」
と乱華に言を返す。
「はい」
がちゃ。
思わず顔がにやけてしまう。
緋陵姫に会える。
緋陵姫に。
乱華の頭の中は既にピンク色。花が散っていた。
少し会えないだけでも不安になる。
週に一度は必ず会っているが、彼女とひとときでも離れていると
不安になるなのだから仕方がない。
急いでとっておきの服に着替えよう。
乱華はセスランの『廊下と階段を走ってはいけません』
という言葉を忘れて、勢いよく駆け上がった。
その時。
「うわああああああーーーーっ」
ズドーン。
足を踏み外した乱華は派手な音とともに、階段から見事に転げ落ちた。
無謀にも6段飛ばしに挑戦してしまったのが仇になったのだ。
「……ううっ」
乱華は階段の下で呻き声をあげ、やがて意識を手放した。

遠ざかる意識の向こうで、乱華は幻を見た。
カランコロンとウェディングベルが鳴り響き、
緋陵姫の手を取り、白い階段を下りていく。
白い花のブーケを緋陵姫が投げ、
それを受け取った否奪い取ったのは、なんと赤男だった。



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