凍夜


 月のない、星のまたたきが美しい夜だった。
 吐く息が霧のように煙る。
 闇主は一人、空を見上げながらその白い息が解けるように空気に溶けていく様を眺めていた。
 傍らには、道連れの女が毛布にくるまって伏している。今は深夜--真円を描く月は天頂を過ぎている頃。女はとうに眠りの世界に入っており、その美しい色違いの双眸は安らかに閉じられ、常には固く結ばれた唇もわずかながら和らぎ、時折かすかな吐息を漏らしていた。

(……寒いな)
 女のその微かな吐息すら白くなる様子を軽く見遣ってから、心の中で一人ごちてみる。
 魔性であっても気温は感じる。暑さ寒さ、暖かさ涼しさも判る。ただ、寒暖に対しての不快感も緊張感といった不便さも感じない。体感気温すら魔力で調整できるからだ。力ある魔性であれば、それは呼吸のような自然さでやってのける。しかし、魔力はあれど常に思いのままに揮えるわけではなく、人間の習性を持ち続けてしまっている彼女はそうはいかないのだろう。
 すっぽりと毛布を頭からかぶり、外気に出来るだけ当たらないように、小さく丸くなっていて、顔だけが空気にさらされている。その様子はいとけない小猫を思わせた。

 ふ、と彼女の小さい寝息が白く霞む。
 その白さと頬の白さがあまりに近しくて……彼は思わずその頬へと指を伸ばした。
 指先が僅かにしか触れぬうちに、感じ取ったあまりの冷たさにびくりとして指を止める。
 魔性の血の通わない心臓がどくりと音をたてた。
 毛布ごしにわずかに上下する胸の呼吸の証がなければ、一瞬彼女の生を疑うところだった……それほどの冷たさ。
 彼はらしくなく慌てた自分を諌めるように落ち着かせ、ゆっくりと吐息をもらした。
「………」
 彼女は、眠っている。
 静かに、静かに。夜の深さに合わせるように、身動き一つせずに深い眠りへと落ちている。
 しかし気配に敏感な彼女を起こさぬよう、眠りの波動を宿しながらゆっくりと手のひらを彼女の頬にあてがった。
 彼女はすでに人ではなかったが、この冷たさは彼女をどこかへと奪ってしまいそうで……それを繋ぎとめたくて。

 いや、そこまで考えたわけではない。手を伸ばしたのは無意識のうち。
 暖めたいと思ったのも無意識だった。

 ふ、と美しい片頬を僅かに歪めて、小さく自嘲じみた笑みを浮かべる。
(一体……)
 なんなのだろう?
 衝動めいたこの行動は。
 傍若無人でどこまでも誰よりも自由な妖主。
 それは誰かを思いやったり労わったりすることから遠く無縁な自分のことであったはず。
 なのに、今の自分は一体なんなのだろう。
 そこらへんの、どこにでもいる人間や性格が良い--風変わりな--魔性ではないか。
(恐ろしい……)
 誰にも変えうるはずのなかった自分。幾千の歳月、誰にも変えられなかった自分。
(それを……)
 出会って何年になる?
 --そう、何年、だ。
 何十年、何百年という程度ではない。
 出会って、たかだか数年のうちに……こうも短時間でこの自分を変えてしまう存在。
 この手の内の、夜の冷気で体温を下げてしまうくらいの脆弱で半端な魔性。
 なのに……他の何よりも輝けるその魂。
 僅かな透き間から覗いた清冽な光--それが、闇の中にいた自分へと届いたのだ。
 その光が焼いたのか。
 この凝り固まった心を。生まれながらに知らずに抱き続けたこの凍えた精神を。

 もう、手放せない。
 この光を失っては、自分は自分を支えられないだろう。
 彼女を失ったこの世界の存在価値など見いだせず、消し去ることしかできないだろう。
 彼女を失ってもなお存在する世界など……目障りなだけだから。
 いや、彼女が寂しくないように、この世のすべてはあちら側へと送ってやった方がいい。
 彼女の親友も恩人も慕う者も全部全部全部………

 --そんな物騒なことを考えていたせいだろうか。
「……ぅ……ん……」
 寝息ではない吐息が、彼女の唇から漏れた。
 しまった、と思った時には彼女の瞼が震え、止める間もなくゆっくりと持ち上がる。 
「…………あん……しゅ……?」
 ぼんやりとした眼差しを一瞬彷徨わせてから彼女はすぐそばの自分を捕らえて僅かに首を傾げた。
「……どうした、なにかあったか……?」
 眠りから覚めきっていない口調は少し舌足らずだが、瞳にはやはり力があった。
 魂の輝きを映す、琥珀の瞳。かつて自分のものだった深紅の瞳ですら輝きを変えているように見える。
 頭上で輝く星のきらめきよりも美しい2つの宝玉。
 眠りという曇りを払って輝きを取り戻す双眸に見とれながら、闇主は静かに告げた。
「何でもない……何もない。大丈夫だ」
「しかし……何もなくておまえがいるというのは……」
 普段は彼女が眠るときは姿を消している自分がいるというだけで、長い逃亡生活で培った危機感は刺激されるらしい。彼女は身を起こした。
「大丈夫といってるだろう?」
 素直で馬鹿正直なくせに融通のきかない彼女の頑固さに微苦笑して彼女の頭をぽんぽん、とあやすように撫でた。
「危険が近付いたら何をおいても起こしてやる。だからもう少し眠るといい。まだ夜明けまで時間がある」
 目を見つめて微笑んでやると、彼女はいぶかしげな表情を浮かべてみせたものの、視線を重ねているうちに納得したのかこくり、と頷いた。
「今夜は冷えるな……」
 彼女は、ぶる、と小さく震え、毛布をゆっくりと自分の肩へと引き上げて身を包んだ。
 しかし寒さはあまり和らいでくれはしなかったらしい。毛布の合わせ目を掴む手が小さく震えている。
 それを見遣った闇主はラエスリールのすぐ隣に腰を下ろして、自分の分の毛布をばさりと広げて片方の肩にかけると--もう片方で彼女の体ごと包み込んだ。
「闇主!?」
 自然とラエスリールを抱きしめる形になり、彼女は途端に真っ赤な顔になって声をあげた。
「何をするんだ!?」 
「こうすれば暖かいだろう?」
 彼女の肩に回した腕に、ふれあう背や腰に冷えた身体の冷たさが伝わり闇主は僅かに眉をしかめた。しかしラエスリールは闇主の腕から抜け出そうとじたばたと暴れる。
「し、しかし……これは、あの、その、……っ」
「じっとしてろ、ほらこんなに冷えてるくせに」
 もがく彼女をぎゅ、と力を込めて抱き留め、手を掴み寄せた。
 まるで薄氷を握るような感触にさらに眉をしかめ、彼女の華奢な両手を自分の両手で包み込む。
 じわりじわり、と氷が溶けるようにぬくもりが伝わっていく。
 それにつれて逃げようともがいていた力はゆっくり抜けていった。
 それでも闇主は手を離そうとしない。腕を緩めない。自分のぬくもりをラエスリールへ映して暖める。
「……あたたかい」
 ぽつり、と彼女がつぶやきを洩らす。
「な?」
 包むだけでなく少し擦ってやると摩擦で生じた熱がさらに冷えた手を暖めた。
 触れている肩や背にもじわりじわりと熱が移っていく。
 冷えきった身体に体温が戻っていく。
 抵抗する力も、寒さへの強張りすらもその熱は解き解いていく。

 それは、滅多に見せない青年の優しさだった。労りだった。
 それが--何よりも彼女の心の内を暖めてくれる。心の深いところから、芯から暖めてくれる。
 頑なな心を柔らかくして、羞恥という誤魔化しの壁を崩して--
 
 ラエスリールは間近にある闇主の瞳をじっと見遣ってきた。
「……何だ?」
「………」
 ただでさえ目に力がある彼女に凝視され、思わず問い掛けるが返答はない。
 抵抗する気がないのが判ったので掴んでいた手から力を抜くと、彼女はするりと自分の手を抜いて……それを闇主の胸へとぴたりと触れさせた。
「ラス?」
 今度はこちらが驚く番だった。
 ラエスリールはかすかに口元に笑みを浮かべるとゆっくりと体を寄せ、彼の胸に頭をもたせかけた。
「ラス?」
 問い掛けに応えず、彼女はうっとりと目を閉じ、唇から吐息とともに呟きをもらす。
「あたたかい……」
 普段ならば、ありえない言動に目を眇めた。
 彼女は自分のその反応などおかまいなしに目を閉じるとあっさりとすうと寝息を立て始める。
 安らかな--無防備にさらけだされた寝顔。
 さっきまでの反応は一体何なんだ?
「…………」
 絶句のあとにやってきたのは--笑いだった。
 たえられず、くっくと肩をゆらす。
(全く……)
 振り回されている。その自覚は充分にあったが、なぜか、心地よさまで感じてしまう。
(全く面白いよ、おまえは)
 すでに退屈どころの話ではない。
 この俺にそう思わせるなんざ、奇跡ではないか?

 すう、と小さい寝息をさせて、彼女が腕の中で眠る。
 少し冷えた肩を抱き寄せる。
 夜の帳は、未だ明けず--それならば、明けるまでずっとこうしていよう。
 この闇の世に、光満ちるその時まで。
 闇を光が超えるまで。
(いや……)
 たとえ、超えたとしても。
 おまえが逃れようとしても、決して離すまい。

 息が凍る。
 その寒ささえ、今は---

 彼は腕の中のぬくもりをそっと抱えなおし、再び白く煙る暖かい吐息を吐いた。




ということで、上月さんから頂いた小説ですvもうもうもう〜最高です!!
こーちゃんの書かれる闇主さんはとにかくかっこいいんですよねvその思いがひしひしっと伝わってきますっ。
凍るような寒い夜も、ラス様という名の暖かさがあれば大丈夫ですよねv
上月さん、本当に素晴らしいSSを有難うございましたm(__)m

後記担当 ちな

そして、なんと、ラス様バージョンもいただいちゃいましたv→「凍夜の暁
上月さんのサイトへはこちら→「Out of STOPPER
背景素材提供「Little Eden」様