プロローグ



 その山には鬱蒼と茂る森があった。その中に、小さな家が一軒建っている。森の中に溶け込むように存在するその家は、木で造られ、すぐにでも壊れてしまいそうに見える。
 周囲に広がる音は、吹きすさぶ風と、それによって引き起こされる葉と葉がこすれる音だけ。それ以外の音は全て、風に呑まれてしまう。
 空は暗く、重く垂れ込んでいる。吹く風の中には湿気が感じられ、まもなく嵐が来そうな天候だった。
 家の中は仄かに明るかった。どうやら誰かがいるようだ。
 家具らしい家具は見当たらない。明かりはランプ一つだけ。ランプの中の蝋燭の火が、家が風に吹かれる度にゆらゆらと揺れていた。
 朽ちかけた机の上に幾つかの宝玉が置かれている。赤、青、緑、オレンジ、黒……色は様々であるが、大きさは均一であり、そしてどの色も一対ずつあった。
「これでいい……」
 そう呟く者があった。それは男で、目は焦点を結ばず、虚ろな表情をしていた。瞳はそこ知れぬ闇のように暗く、髪は艶をなくしていた。彼はエメラルド色の宝玉を指で取る。
「これで……」
 空がカッと光った。轟音が鳴り響き、直後に大粒の雨が降り始めた。その勢いに勝てずに落ちていく葉が地面に叩きつけられる。雨粒が落ちてくる土は、見る間に水で覆われていく。辺りは暗くなり、黒い雲が空を埋め尽くした。
「これで……君は――」
 しかし、完成したと思われたそれは、その者の望んだものではなかった。思い描いた結果が得られず、彼は落胆した。
 机の上から宝玉が落ち、硬質の音を響かせてころころと床を転がっていく。
「何故……」
 彼はそれから離れながら問いかける。
「何故、駄目なのだ」
 答えはない。得られるはずもない。彼が問いかけているものには口はあってもそれを動かすほど強い魂はなく、ただ綺麗なだけの瞳で彼を見つめることしかできないのだから。
 嵐は容赦なく家を襲う。稲光が部屋を満たし、一瞬だけ狂気の走っている男の顔を照らした。
 彼はそれを見つめ続けた。
 返事をすることのないそれをひたすらに見つめ続けた。
 風がゴウッと牙を剥く。窓がガタガタと激しく揺れた。もはや家の中から外の様子はまるで見えない。
 やがて彼は納得したかのように頷いた。
「そうか。そうだな、そうでなければならない」
 ゆっくりと、離れたそれに再び近付く。
「君の為なら彼女も喜ぶ」
 見つめることしかできないそれをそっと抱きしめて、彼は子どものように嬉しそうな顔をする。
「さぁ、支度をしよう。大丈夫。全てはきっと順調に進む」
 抱きしめられているそれは、ゆっくりと、流せるはずもない涙を流す。微かに開いている口から何か声らしきものが漏れたが、彼の耳に届くことはなかった。
 彼はそれの瞳から流れ出た涙をそっと拭うと、幼子に言い聞かせるように優しい声音で言う。
「心配はない。私は必ず君を、」





 そこから先の言葉は雨音に掻き消された。




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