地図にも載らない、あらゆるネットワークにも引っかかることのないその場所に、二人の人間がいた。薄暗い部屋の中、その二人はただ黙って目の前のパソコンの画面を見つめている。
すらりとした体型をした女性は黒い艶やかな髪を短く切り揃えており、琥珀と深紅の双眸が強烈な存在感を示していた。彼女を見た者は、十人中十人が口を揃えて「美人」だと言うほどに、彼女はただひたすら美しい。
対するもう一人は、深紅の髪と深紅の瞳。そして何より、女と並んでいても遜色しないほどの美貌の男であった。
「調子は?」
「順調順調。あと一分もあれば片付けられる」
「そうか」
女は画面を見つめたまま、相棒の言葉に短く答える。画面の中では様々な文字の羅列が凄まじい速さで現れては消えて、現れては消えてを繰り返していた。
ちらりと、キーボードの上で指を躍らせている男の横顔を、女は盗み見る。
その顔はまさに真剣そのもので、普段の彼からは想像出来ぬものだった。
常日頃から人を馬鹿にしたような言動をし、相手の神経をことごとく逆撫でする男だが、やる時はやるのだということを女は知っている。
だから、もう少し考えて振舞えば、無駄に敵を作ることもないだろうに。
女はそう思わずにはいられない。この男、こちらが思っていた以上に敵の多い男だったのだ。
ふと、男のこんな一面を知っているのは多分今のところ自分だけなのだ――と思うと、何やら奇妙な感情が湧いて来たことに気付いた。けれどそれが何なのか自分で分からない以上、どうすることも出来ず、ゆえに女はそれを黙殺する。
彼女がそんなことを考えているうちに、幾度となく文字列の出現と消失が繰り返されていた画面が、突然パスワード入力画面に切り替わった。
「成功だ」
にやりと笑みを浮かべ、男は嬉々としながらキーボードを叩く。
いくつかの数字を入力し、ロックを解除した直後、画面に映し出されたのは何処かの建物の見取り図らしきもの。
「――行って来る」
画面をしばらく見つめた後、女はそう言って踵を返す。男はそれに対し、画面を見つめたまま「行ってらっしゃーい」とのんびりした様子で手をひらひらと振って女を送り出した。
電脳楽園遊戯
女の名前はラエスリール。職業、SS(シークレットサービス)。
男の名前は闇主。職業、プログラマー。
以上二名は、当局からAランクを付けられている犯罪者である。
この世界における第一級の犯罪は殺人であるが、この二人は数名いるAランク犯罪者の中で唯一、殺人罪以外で当局からマークされている存在だった。何故かと問われれば、返す答えは一つしかない。
この二人が狙うのは、常に当局のものだからである。
二人がどうして当局だけを狙うのか、理由は定かではない。しかし彼らの計画は一度たりとも失敗したことがなく、よって二人が本格的に活動し始めて半年でブラックリスト入り。更に二ヵ月後にはAランクを付けられ、最重要警戒対象者となる。
狙った獲物は外さない――。
二人の狙うものは、いつも当局にとって失うと痛手になるものばかりであった。
狙うものは実に多種多様で、次に何を狙われるか見当もつかないから、当局はいつも対策は後手に回る。監視の目を光らせようにも、普通の犯罪者でも居場所を特定することは非常に困難を極めるというのに、彼らに至ってはその困難さもAランク……即ち、実質的に不可能の領域というわけである。
実はそれには男の持つ性質に関係しているのだが、そんなことを当局は知っているはずもなく。
闇主はそもそも、何か一つのモノに縛られることをよしとしない男である。
だからこそ彼はプログラマーではあるが、実際のところは「プログラム関係の便利屋」と言った方が正しいのかもしれない。そして例えどんな背景が依頼主にあったとしても、お金になるなら何だかんだ言いながらも結局は引き受ける。これは向こうにしても同じことで、闇主は依頼する側から見れば失礼極まりない男であることには間違いない。
報酬は高いが、腕は確か。
なのでそれなりに表沙汰に出来ない事情があり、尚且つ切羽詰っている人間としては彼に頼る他ない。その関係で、闇主は普通の人間たちが踏み入れない領域に悠然と入ることの出来る、数少ない男となった。
つまり早い話、闇主は裏の社会に恐ろしいほど顔の効く、フリーのプログラマーなのである。
この世界、この時代のプログラマーと言う肩書きを持つ者たちは皆、何処かしらの企業に属している。だから真っ当な彼らから見れば間違いなく彼は異質な存在だが、本人がそれを気にかけることは一切なかった。
そんな自由奔放を具現化したような闇主が、ラエスリールと組んで仕事をし始めたきっかけは定かではない。
彼が彼女に惚れたのだとか、彼女が彼を打ち負かしたのだとか様々な憶測が裏で飛び交っているのだが、真偽は一向にはっきりしないのである。こればかりは本人たちのみが知ることであって、その本人たちが何も言わないのだから、内容の規模は色々な意味で大きくなっていくばかり。
闇主にしてみればそれらは実に楽しい余興のようなものだし、ラエスリールは世間の噂というものにはそれほど敏感でもない。
結果、沈黙を守ることになる。
「まあもっとも、それだけじゃないんだがな」
監視カメラの映像が映る画面をじっと見つめながら、男は小さくごちった。
彼が彼女の側にいるのは――結論から言えば、捕らわれたのだ。
闇主が、ラエスリールに。
***
出会いは、ある企業のビルの裏口だった。
そこは黒い噂の絶えない企業ではあったが、表向きは一流の大企業。よってその時、闇主がそこを訪れたのも、内密に処理して欲しいものがあるとの依頼があったからに他ならなかった。報酬は今まで受けた仕事の中でも破格の報酬だったから、その日のことはよく覚えている。
その日の夜、闇主は依頼された仕事を何の問題もなく終わらせ、ついでだから何か金目になる情報でも盗もうかと裏口に回ったのだ。
金はあるにこしたしたことはない。むしろあればあるだけいい。
そんな自論を持つ彼は、こうして仕事が終わるとその依頼主の元から様々な情報を頂戴することがある。直後、忽然と姿を消す。
そうする方法と手段を持っている闇主にとって、実にそれは容易いことであった。
彼が依頼主と不可侵の関係にあるはあくまで契約している間のことであって、それが終わったのならば後のことは彼の知ったことではない。よって持ち出した情報が依頼主にどれだけの痛手を与えたとしても、闇主は何とも思わなかった。そんな感傷を持ち合わせていては、世の中渡って行けないのだから。
何より、この世で一番金になるのは、他ならぬ情報である。
そんなことは子供でも知っている常識中の常識であるし、だからそれを易々と持ち出されるのは、そこの管理体制に問題があるのだ。まさに自業自得。
だがあの依頼主は、彼の行動パターンを読み切っていた。
ビルの裏口に配置された彼女が、その証拠。
『ここを、通すわけにはいかない』
闇主の姿を見た途端、抑揚のない声でその女は言い放った。全身が闇に溶け込んでいる暗闇の中、琥珀の双眸が強い意志を持ってこちらを見つめている。
隙がない。
悠然と構えながら、その鋭い空気に僅かに寒気を感じた。
目の前の人間は間違いなく女ではあるが、纏う雰囲気は完全に「戦士」である。
ゆっくりと全体を見るように視線を下へと落としながら、右手に握られている深紅の剣を確認した彼は、瞬時に女の正体を悟った。
『……“黒服”か、お前』
SS――通称“黒服”。
数ある職業の中でも最も過酷を極める職業であり、その過酷さは屈強な男ですら音を上げるほどだと言う。そして彼らは常に黒いスーツを見に纏っていることから、いつしか“黒服”と呼ばれるようになった。仕事内容はその名が示す通り主に要人警護であるが、しかしその実態は高額な報酬と引き換えにどんな危険な依頼も受けるというジャンク屋である。
以上のような仕事内容から想像を絶するほど過酷だと言われる“黒服”の職に、女が就くということは大変珍しい。だから彼は、女の名を何の苦労もなく思い出すことが出来た。
<紅蓮の姫>。
本名を確か、ラエスリールと言ったはず。ちなみに<紅蓮の姫>という二つ名は、彼女の持つ剣の銘――紅蓮姫から由来しているらしい。
彼女は“黒服”の中でも、エース格に属していたはずだ。闇主の記憶が確かならば。
その<紅蓮の姫>がここにいるということは。
即ちそれは。
『俺を消すということか、あの依頼主は』
深紅の瞳をすっと細め、低く呟きを落とす。
自分は用済みだと、依頼主はつまりそう言いたいらしい。
つまりこれから先、闇主の世話になるつもりはないということかあるいは、内部の様子を知った者は例外なく消すというこの企業の「方針」からか。どちらにしろ、相手はここで闇主を始末するようだ。
けれど己の置かれている状況を理解したにも関わらず、彼は尚、悠然と構えて彼女と対峙している。それは相手が誰であれ、闇主は負けない絶対の自信があったからに他ならない。
何故なら、彼は魔術士なのだから。
魔術士とは種族の名の一つであり、外見は人間とそう変わりない種族のこと。秘めたる力は絶大なもので、魔法使い――魔術士が扱う魔術に近い力を操る人間たち――とは比べ物にならないほどの力を有している。
中でも闇主は<柘榴の君>の呼称を持つ、五大魔術士の一人だった。
だから彼は、こんな場面に置かれながらも微笑みを浮かべることが出来るのであって。
『面白い』
くつりと嗤う。
つくづく、無知は罪だと思う。同時に哀れである。
依頼主の無知に嘲笑を与えながら、彼は意識を目の前の女に集中させていた。彼女はいつこちらへ飛びかかって来るか分からないものだから、気が抜けない。強い魔術士であるがゆえ、目の前の女の性質を看破することは簡単だった。
彼女も又、魔術士である。
何故ならその内から、闇主の覚えのある気配がする。
この気配はそう――<黄金の君>だったか。
だがしかし、ラエスリールは気付いていないようであった。己の本質が魔術士であることに。
こうして対面してみて初めて解った。目の前に立つ者が、女でありながら“黒服”連中の中でもエース格に属している理由が。
どんな危険な依頼でも、必ずこなして生還して来ると。
彼女のそんな武勇伝は有名だけれども、なるほど魔術士ならば話は実にシンプルな話である。五大魔術士でも最高の力を持つ<黄金の君>の関係者ならば、尚更。
欲しいと思った。
理由などない。
ただそういう感情が意識の表面上に出たからそう思ったのであって、それ以上の理由など彼は考えることもない。だから艶然と笑みを浮かべ、手を差し伸べた。
『俺と来い、ラス』
自然とそう呼んでいた。ラス、と。
おそらくいずれ、この女に全てを絡め取られるであろうことを漠然と感じながらも、欲しいと言う欲求には勝てなかった。
それに、彼女が様々な理由から密かに当局を探っているという情報は掴んでいた。
だからそれとなく、彼女をその気にさせるのは、彼としては実に簡単だったわけであり。
ようするに――彼は退屈だったのである。
***
あれから数年。
色々とあって、あの時と今の彼女の外見は大きく違っている。簡単に言ってしまえば、魔術士としての本質に目覚めた……といったところだ。
そして五大魔術士の一人である男は、当局に攫われた弟を助けるため、独自に探りを入れているラエスリールと組んで仕事をするようになる。
『お前は弟を助けるため、俺は退屈凌ぎのため。元から当局のやり方は気に入らなかったんだ。だから』
俺と組んで、ヤツらを潰さないか――。
最初は本当に退屈凌ぎで提案したことだったが、意外にも彼女はあっさりとこちらの案を呑んだのである。どうも彼女は、こちらの正体に薄々ながら勘付いているらしかった。その証拠に、彼女はその時「お前のような味方がいると、こちらとしても助かる」と言ったのである。
始めのうちは、飽きたらラエスリールとのコンビはさっさと解消して、また以前の生活に戻るつもりだった。
……しかし。
気付いた時にはすっかり彼女に捕らわれていた。自由気ままに生きて来た、この自分が。
けれどそれを覆そうという気は到底起きなかった。だが時折、それとは全く逆の感情が己の中を支配することがあるのも、事実ではあった。しかし本当にそうしようとはしても出来ない自分も又、確かにあるのだ。
非常に、不愉快ではあった。
今までが今までだったせいで、彼女という存在に調子を狂わされっぱなしの自分がいることが、ではない。自分をそういう風にした彼女に対して――である。そう思っていることをあちらが知れば、間違いなく怒鳴られるだろうが、少なくとも彼にしてみれば間違いなくそうであるから訂正などしない。
それでも尚、彼女と一緒にいるのは、やはりもう戻れないところまで来ているからだろう。
もう引き返せない。引き返そうとも思わない。
ラエスリールという存在は実に面白く、且つ危うい存在であった。
彼女一人の存在が世界に在るというだけで、こんなにも世界は揺れている。それほどに、女が秘めている力は驚くほどに大きいのだ。
彼が思うにそれは、五大魔術士の一人である<黄金の君>と、電脳の女王として当局に対して絶大な影響力を持っていたチェリクの娘であるからだろう。だから彼女の弟は当局に攫われたのだし、彼女自身の身柄もあちらは喉から手が出るほど欲しがっているに違いない。
世界を支配したがっている当局にとって、まさにそれは玉座を手に入れるに等しいことだと信じている、と闇主は考えている。
だが、世界を支配したところで一体何になるというのだろうか。
こんな退屈な世界を。
『闇主。この部屋でよかったか?』
自分が実に下らないことをつらつらと考えていたと闇主が気付いたのは、小型スピーカーから聞こえてきたラエスリールの声を聞いたためだった。
「……ああ、そこでいい。部屋に入ったら、端末に渡したものを手順通りに接続してくれ。あとはこっちがやる」
平静を装い、目の前の映像を見ながら彼女の問いに答える。
とにかく今の彼にとって彼女は全てであるし、だから別れを告げる気も離れる気も当局に引き渡すつもりもない。
彼女のために出来ることならば、全力を出すことさえ厭わない。
あちらはどうだか知らないが、だからと言って問い質すのは面倒なのでしていない。そんなことをしなくても向こうも自分と離れるつもりがないのは分かっているし、よってラエスリールとの関係は、どちらかが死ぬまで決して変わることなどないのだろう――と、闇主は思うのだった。