お絵かきチャットお題  医者
碧様 作

薬品の臭いがする真っ白い廊下。看護師や清掃員、時には患者がそれぞれのペースで歩いている。またそれに面した部屋の中では、ベッドの上で体を起こしている人の見舞い客が話をしていたり、見舞い客のいない人間は読書をしたり、はたまた寝ていたりして過ごしていた。
 平日の午後の病院。そこで繰り広げられる、様々な人間模様。
 その1つとして紹介するのは、今、その廊下をやや顔を強張らせながら歩いている女医だ。
 琥珀の瞳で左手に持つ書類を眺めながら、思わずため息をつく。結い上げられた黒髪は少しだけ肩口に垂れており、白衣に映える。白衣の下は白い開襟のシャツとチャコルグレーのタイトスカートだ。
 眼鏡越しに書類を見るその顔が強張っているのは、そこに書かれている内容が彼女にとって悪いものであると言うことではない。
 問題は、内容ではなく、彼女が向かっている方角にある。
 白衣を宙に舞わせながら辿り着いたのは、個室であった。扉の横に書かれた名前を見て、瞳を瞑り、大きく呼吸してから、中にいる人物に声をかけた。
「失礼します、健診の時間です」
 ドアを開けて入れば、部屋の中には患者しかいなかった。個室だからこういう可能性が高いのは知っているが、どうもこの患者の見舞い客はわざと、この健診の時間を避けているような気がする。
 と、疑ってしまうのには勿論、理由がある。
「お疲れ様、ラス」
 にっこりと微笑んで女医を迎えたのは、深紅の青年。つい2週間前、交通事故で入院した患者だった。幸い大怪我もなく、軽い骨折だけで済んだので、退院するまでさして時間はかからないだろう。左腕と左足にギブスを巻いているが、見かけほど重くはない。
 部屋に入った女医は特に表情を和らげるでもなく、淡々と職務をこなす。
「左腕と左足はどうです?」
「少しは良くなった」
「動かしにくい場所はありますか?」
「いいや」
「頭痛がするとか、吐き気がするなどの症状は?」
「ない」
「他に何か症状として感じるものは?」
「敢えて言えば、もっとラスといる時間が多いと嬉しいけれど?」
 これだ。
 この青年、健診に来る度に似たような台詞を言う。初めて会った日は「君が担当で嬉しいな」で、次に会ったら「傍に欲しい」。ついこの間も「結婚しよう」と言われたばかりだ。
 冗談だと思ってこちらは相手にしないのだが、向こうは「冗談ではない」の一点張り。1週間前には見舞いに来ていた部下と思しき人間を、「健診だから」と追い返し、健診を終えてもなかなか放してくれなかった。その日から健診の時間に彼の部下と鉢合わせる事がなくなった。
 触らぬ神に何とやら、とは言うが、部下がご機嫌を取る為の努力を惜しまないのにも、訳がある。
 なにせ目の前の青年、どこぞの社長だそうなのだ。
 普通は社長の目に留まったらそれなりに喜ぶものだと思うのだが、仕事の邪魔をするのなら例外である。
「何もないのならこれで失礼しますね。まだ健診が済んでいない患者がいますので」
「つれないな…」
「あいにく、お話に付き合っている時間はありません」
「じゃあ、今日は引き下がるさ。『職務執行妨害です』なんて訴えられても困るからな。ただ、1つ条件がある」
「なんですか?」
「退院後にデートをする約束を」
「……申し訳有りませんが、海外での報告会・研修会がありますので、2ヵ月先まで予定は詰まっています」
 嘘は言っていない。国内外を問わず、最新の医療を知る機会があれば足を運ぶようにしている為、彼女のスケジュールは随分ときついものとなっているのだ。
 青年はムッとした表情をしたが、すぐに表情を崩す。
「なら、2ヵ月後に」
「手帳が手元にないのですぐに約束はできませんね」
「手厳しいな」
 そう言いながら、クスクスと彼は笑っていた。
 会話を楽しんでいるのだ。
 だがその空気に飲まれてはいけない。言質を取られればこちらの不利になることは目に見えているのだから。冷静さを失っては負けだ。
「それほどでも。それより、本当に怪我の具合や症状で何か変化はありませんか?」
「…ない」
「では、失礼します。くれぐれも無理なさらないように。軽いとは言え転んだりしたら大惨事かもしれませんよ」
「承知しているさ。こっちも仕事が溜まっているからな。ああ、そうだ、ラス。1つ頼みがあるのだが」
「デートのお誘いと結婚の承諾以外でしたらやりますが?」
 先手を打ったつもりだが、どうやら見当違いのことを言ってしまったらしく、相手はクククッと楽しそうに笑う。
「そこの棚の下段から本の入った袋を出してくれないか?」
 彼女は一瞬苦い顔をしてから、彼の右手にある棚に近付く。個室に設置されているその棚の下にある扉を開けば、確かにそこに本の入った紙袋があった。部下が持って来たのだろう。
 それを取り出し、彼の横の空いているスペースに置いた。
「これですか?」
「ああ、ありがとう」
 そう言いながら一冊の本を紙袋から出す。それを彼に渡すと、彼はそれを枕元に置いた。
「これは元の位置に?」
「そうだな」
 一冊分軽くなった紙袋を元の位置に戻して、棚の戸を閉める。
 いい加減、次の患者の所に行かなくてはいけない。
「他には?」
「いや、特に」
「なら何か違和感を覚えたらすぐに連絡を」
 無機質な機械の音声のように言って、彼女はその場を去ろうとした。だが、一歩踏み出すと青年が「あ」と一言発した。
 いくら苦手意識の強い患者でも、そんな声を出されたら立ち止まらざるを得ない。
 方向を変えていた体の向きを戻して、青年と向かい合う。
「何かありましたか?」
「忘れていた」
「何をです?」
「ちょっとこっち来い」
 右手による手招きの仕草に、無意識に近くに寄る。青年の真横の位置だ。
「どうし…」
 たのですか、と続けようとしたのだが、それを言い終わる前に怪我をしていない右手で彼が彼女を引き寄せた。
 そして頬に軽くキスを落として、そっと囁く。
「礼をしそびれた」
 不意に聞こえた低いテノールに一気に顔が熱くなり、彼女はすぐに身を起こした。彼は彼女の動きに合わせて解放したので、彼女は瞬く合間にベッドから離れ、彼を凝視する。
「な、な…?!」
「お礼だ。明日も頼むよ」
 その何食わぬ顔。
 わなわなと震える唇で何かを言おうとするが、上手く言葉にならず、熱くなった頬を押さえて個室から出て行った。
 出た瞬間にすれ違った看護師に不審そうな顔をされたが、それどころではない。
 耳元にあのテノールの余韻を残したまま、彼女は足早にその個室から遠ざかる。
 その様子を中から感じていた彼は、本を手に持ち、それで顔を半分隠して勝ち誇ったような表情を浮かべていた。

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自爆第2弾です。よくあるオチで締めました。
「医者」は個人的に書きにくいテーマです。
白衣は好きですが(え。
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碧さん作、お医者様ですvしかも、ラス様が、女医さんで、
闇主さんが患者というところがもうもうもう(><)ノ
しばしチャットでは大盛り上がりになりましたv碧さん、
続編を、密やかに続編を期待してますv


後記担当 ちな